海軍関連の備忘録  

2018年2月26日公開 未完成

普段書いている怪文書とはあまり関係のないメモ書き。海軍に関連する人物の経歴や企業の沿革、艦名に関するくだらない話など。
多分本編の更新が滞ってもこっちは続くんだろうなあ。とりあえずフォントサイズ12で文章を収める練習に。

目次

語源、由来など この下
人物伝(技術者・軍人など) 
企業
艦名考
記念艦考
参考資料
戯言

語源、由来など随時予定)

戦艦  
軍事用語的には、特定の艦種を指す英単語「Battleship」の訳語。1880~90年代より使用。同艦種に対する訳が定まらない時期には、「戦闘艦」という表記も見られた。
(時代を問わず、軍艦全般を指す言葉としてもたびたび用いられるが、専門用語的には誤りとなる)

「Battleship」という言葉自体は、帆船時代の主力艦である戦列艦(Ship of the LineもしくはLine of battle-ship)の名称を引き継いだもの。ただし帆船時代から戦艦の時代に入る前には、20数年程装甲艦(Ironclad)の時代があり、その間はあまり使われなかった単語となる。

巡洋戦艦
1910年代より使用。戦艦と同じく特定の艦種を指す英単語「Battlecruiser」の訳語・・・と思われるが後述するように別単語が由来の可能性も。
より直訳に近い「戦闘巡洋艦」という表記も一部ではみられるが、主流とはなっていない。
「Battlecruiser」という英単語はライオン級の計画時あたりに普及したもので、それ以前は単に装甲巡洋艦(Armoured Cruiser)扱いであった。

なお一部書籍などでは、Battlecruiser表記がなされる以前に「Cruiser-Battleship」という表記が使用される例もあり、巡洋戦艦という単語はこちらを語源としているのかもしれない。
例として上の画像(クリックで拡大)は巡洋戦艦が誕生した時期のブラッセイ海軍年鑑の一部である。
一番左に見える1907年号では装甲巡表記だが、二番目の翌1908年号ではカッコ内にCruiser-battleshipが登場し、左から三番目の1911年号まで使用されていた。ただ同号の別ページにはBattle-cruiser表記もあり、四番目の1912年号以降はそちらの表記に統一されている。

ビッグセブン
海軍休日中に16インチクラスの主砲を搭載した日米英の戦艦7隻(長門、陸奥、コロラド、メリーランド、ウェストヴァージニア、ネルソン、ロドニー)を指す言葉。
以前にも書いたように、知名度に反して出典や由来はまったく把握できていない。
(よって管理人が書いた「多分日本の新聞社あたりが考えた言葉では」という部分も、特に資料に当たったわけではないただの推測となる)
リアルタイムではないのでわからないが、少なくとも学研ムックが沢山出ていた頃には一般常識レベルの単語だったようだ。

個人的な話になると、中には歴史的な裏付けのないこの言葉を用いる事を好ましく思わない人もいるようだ。しかし歴史用語というのは当時の資料に見られない言葉でも、後世の評論や研究用語を由来として一般化する事が度々ある物である。
もちろんその単語が適切かどうかは、対象を表す情報としての正確性も関わってくるのだが、これはまた別の問題だろう。
まあどのみち、由来や出典を考えない層にまで広まったという事は、ミーム的な生存競争の結果である。
あとは少し冷めた意見だが、日本語には他にも日本人にしか通じないカタカナ語がかなりの量あるわけで、軍事用語にあるのも多少は仕方ない事ではと思う。

ダニエルズ・プラン
米国が以前からの目標であった戦艦48隻の保有を目指し、1916年に成立させた大規模な海軍拡張計画。名前は当時の海軍長官ジョセファス・ダニエルズより。
日本の八八艦隊計画と同時期に行われ、同じくワシントン条約で廃案となった事でよく知られているこの計画だが、実はこの呼び名も日本オンリーの呼び名である可能性が高い。
そもそも英語版のウィキペディア記事からして違うわけで、その他ネット検索でも出てこない事はないが計画名としては確認できず、書籍となるとフリードマンの米戦艦設計史などにも出てこない。
本国では1916年(の海軍)法案、もしくは日本でも使用される三年計画という呼び名が主流のようだ。

この言葉の出典に関してはかなり限られた範囲だが以前調べる機会があり、その際には結構昔の世界の艦船のアメリカ海軍史特集や『軍艦総長平賀譲』などに「ダニエルズ計画」という言葉が使用されているのを確認している。ただ総横文字のダニエルズ・プランはかなり最近の書籍にしか登場しないようだ。
なお後の時代の拡張計画で登場するヴィンソン・プランやスターク・プランといった言葉は普通に本国でも使用されている。この点が何か関係しているのかもしれない。

以下編集予定

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人物伝

日本

金田秀太郎 1873-1925
海軍軍人 最終階級は中将 
経歴 編集予定

備考
世間一般(?)では50万トン戦艦という珍兵器の考案者として知られているが、海軍技術、特に専門である主砲関連の研究における功績も大きい。
親交の深かった平賀譲と盛んに意見交換をしていた事もあって、資料をたくさん残しており、管理人的には非常にありがたい人である。

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斉尾慶勝 1889-1986
技術士官(造兵) 最終階級は中将
経歴 編集予定

備考
新戦艦に関する会議で、健在だった頃の藤本計画主任が20インチ砲艦を望むのに対して、「16インチから一度に飛躍する自信はない。造艦はブリキ細工だが大砲は違う」と言い切った。
管理人的には後世に残したい名(迷)言である。
(当時の藤本大佐の案は20インチ砲12門対16インチ防御30ノットで排水量5万トンと、これをブリキ細工と呼びたくなる気持ちもわからなくもない)

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英国

海軍役職名については以下の訳語を使用する
First Lord of Admirality=海軍大臣
First sea Lord=第一海軍卿
Surveyor of the Navy=艦艇監督官、1859年よりThird sea Lord もしくは Controller of the Navy=第三海軍卿
Chief constructor=主任設計官、1875年より
Director of naval construction=造船局長 

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アイザック・ワッツ  Issac Watts  1797-1876
造船官 謎の多い英国装甲艦の父。
1797年プリマスに生まれ、1814年より造船学を学ぶ。
その後ポーツマス工廠で経験を積み、1847年にはシャーネス造船所の船大工長、1848年より艦艇監督官補佐(59年より主任設計官に名称変更)に任命される。
1863年まで艦艇設計の責任者を務めた。
彼の代に生み出された艦には、英国初の装甲艦ウォーリア並びに英国初の砲塔艦プリンス・アルバートなどが含まれる。
(その割には彼に関する情報は少なく、後の主任設計官・造船局長に比べると語られる事もあまりない)

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ウィリアム・アームストロング 1810-1900
技術者、実業家。アームストロング社の創設者

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クーパー・フィリップ・コールズ 1819-1870
海軍軍人、技術者。最終階級は大佐。
砲塔艦の提唱者の一人。自らが建造をゴリ押した装甲艦キャプテンに乗艦、同艦の欠陥から生した転覆事故で艦を運命を共にする。

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エドワード・ジェームズ・リード Edward James Reed  1830-1906
造船官。第2代主任設計官
1830年シャーネスに生まれ、49年よりポーツマスの数学造船学校にて教育を受ける。
卒業後はシャーネス工廠に勤務するも1853年不満を感じ退職。科学雑誌の編集者などを務めつつ、独自に造船研究を行った。
この活動ににより、学生時代の友人で義弟でもあるナサニエル・バーナビーをはじめ造船官仲間からの評判が高まり、1861年海軍に復帰。
ペラスやベレロフォンといった中央砲廓艦を考案し、63年にはワッツに代わり主任設計官に就任した。
彼の代には、ベレロフォンから発展させた中央砲廓艦に加え、米モニターから発展していった砲塔艦デヴァステーションが設計され、後の戦艦の形につながる大きな一歩を進めることになる。
しかし1870年、装甲艦キャプテン建造に関する不満から、主任設計官の座をバーナビーに譲り辞任※。再び海軍を去り、復帰することはなかった。

辞任後は1874年から晩年に至るまで庶民院議員を務め、革新派の政治家として、海軍や(バーナビーが手がけた)艦艇に関する批判の先鋒に立っている。
また造船技師としての活動も継続し、ドイツ、日本、ブラジル、チリといった国の依頼を受けて装甲艦設計を担当。
この際には主任時代末期に生み出した砲塔艦よりも、保守的な中央砲廓艦を好んだようだ。
なおこれらの艦の内、インディペンデンシアがネプチューンとして、コンスティトゥシオン級がスウィフトシュア級として英海軍で就役しており。結果的に再び英海軍の艦艇を手掛ける事に。
1906年没

※とある動画、並びにそこがソースとした新見志郎氏の本では、時の海軍大臣ヒュー・チャイルダースに事故の責任を押し付けられて辞任したとされている。
今回調べた分だと大本の出典も確認できたが、リードが辞任したのはキャプテン転覆よりも前であるという記述もあり、確証は持てない。第三海軍卿スペンサー・ロビンソンが責任を取らされたのは事実らしいけど
†この依頼の際には、自ら来日し海軍関係者に直接指導を行ったほか、滞在中に調べた事をまとめた日本紹介本『Japan: Its History, Traditions, and Religions』を執筆している。

その他備考
・1851年に結婚。妻は先述したように、学生時代の友人、主任時代の助手であり、自らの跡を継いだナサエニエル・バーナビーの姉。
なおこの二人はこういった間柄に加え住所も近かったので、辞任後も顔を合わせる機会が多く、その際には造船に関する意見の違いで口論になることも多かったという。

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ナサニエル・バーナビー 1829-1915
造船官(第3代主任設計官、初代造船局長)

先述したデヴァステーションもバーナビーの手による部分が大きい。
1885年に辞任。子孫の話によると、リードからの批判で精神が参ってしまったというのが
実情らしい
備考
リードよりも年上だったとは・・・

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ジョージ・ワイトウィック・レンデル 1833-1902
アームストロング社の技術者
自らが携わったレンデル砲架やレンデル砲艦といった兵器に名前を残している。

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ジョン・ジャッキー・フィッシャー 1841-1920
海軍軍人。最終階級は元帥。おそらく戦艦の歴史において最も重要な人物。

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ウィリアム・ヘンリー・ホワイト 1845-1913
造船官(第2代造船局長)

なかでもマジェスティックからフォーミダブル12インチ主砲と6インチ副砲を高乾舷の概要戦艦 英標準型戦艦と呼ばれ、
後任のワッツが生み出したドレッドノートについては、6インチ副砲の欠如、満載時の喫水増加による装甲区画の沈み込み、建造費の高さなどの観点から批判的な立場をとっている。

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フィリップ・ワッツ  1846-1926
造船官(第3代造船局長)

装甲艦インフレキシブルでは新たに導入された減揺タンクの設置に携わり、その際に初代艦長であるフィッシャー大佐(当時)と出会う

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パーシー・スコット 1853-1924
海軍軍人、技術者。最終階級は少将。近代砲術の父
保続照準 望遠鏡照準器の改良 一斉打ち方  距離通報器 ヴィッカースと組んで方位盤を開発
ジェリコーやフィッシャーの注目に  ドレッドノート 射撃指揮所の視界が排煙で妨げられると批判的
戦中対空射撃の研究 戦後は戦艦不要論に傾いていた。

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ジョン・ラッシュワース・ジェリコー 1859-1935
海軍軍人。最終階級は元帥。

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レジナルド・ベーコン 1863-1943
海軍軍人。最終階級は大将。

日本の金剛型に14インチ砲を薦めていた記録が残っている。

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トマス・ブラッセイ(ブラッシー) 1863-1919
軍事評論家。ブラッセイ海軍年艦の編集長

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ユースタス・テニスン・ダインコート Eustace Tennyson d'Eyncourt 1868-1951
造船技師、造船官(第4代造船局長)
1868年ハートフォードシャーに生まれる。
エドワード・リードの娘の勧めで造船技師を志し、チャーターハウス校を卒業後1886年アームストロング社に就職。同時期にグリニッジの王立海軍学校で造船学を修める。
1898年フェアフィールド造船会社に転職するも、1902年にアームストロング社に復帰。
以降は主に海外への軍艦セールスを担当し、南米やトルコ向けド級戦艦の設計を行った。

1912年にはチャーチルの推薦でワッツの後を継ぎ造船局長に就任。※
彼が造船局長を務めた24年までには、フィッシャー提督の意向などもあってフューリアスなど奇妙という言葉を付けざるを得ない物も生み出されたが、それでも第一次大戦前から海軍休日までという非常に重要な時期に、最新の技術を取り入れた新たな艦艇を創造する上で大きな役割を果たしている。
その中には初期の空母や軽巡洋艦の建造があり、主力艦では傾斜装甲やバルジの導入なども彼の監督の元で行われた。
担当した主力艦はR級に始まり、レナウン他ハッシュハッシュクルーザー、フッド、G3、ネルソンと続く。
さらに大戦中チャーチルの呼びかけで設けられた陸上艦委員会の委員長を務めており、戦車という兵器の誕生にもほんの少し関わっている。
戦後はネルソンの設計を最後に造船局長を辞任し、アームトロング社の造船部に復帰。†
海軍休日による造船不況やヴィッカースとの合併を経た28年にアームストロング社を退社、新たにパーソンズ社に移り、晩年まで役員を務めた。1951年没

※ これで三代続けてアームストロング社の人間が造船局長を務めることになるが、前の二人は同社に雇われていた海軍出身の造船技師であったのに対して、ダインコートは民間出身である。
† この際にネルソン級の一番艦はアームストロングで建造されたため、その最終契約書には発注側と受注側の両方に自分のサインがあるという奇妙な状況に陥っている。自伝によると不正を疑われたらどうしようかと、本人としては不安であったそうだ)

その他備考 
・父の従弟は詩人のアルフレッド・テニスン。
・1930年に準男爵の位に叙されたことから、日本の書籍ではダインコート卿と表記されることもあるが、準男爵の敬称はロードではなくサーであることから、卿と訳すのは不適切ではないだろうか。
・日英同盟解消後に同社を訪れた平賀譲に対して、ネルソン級の図面をこっそり見せてあげた事も。

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ジョージ・サーストン George Thurston  1869-1950
ヴィッカース社の造船技師
詳しい経歴は不明だが、1898年に同社に就職。
以前はリバプールやエルジック造船所で経験を積み、エルジック時代はフィリップ・ワッツに師事していた。
1909年以降設計部門の中心となり、30年まで造船技師の重鎮として活動をつづけた。日本では金剛型の設計者として知られている。
1950年没。

備考
本名はトマス・ジョージ・オーウェンだったが、1915年よりサーストン姓を名乗った
どうでもいい話だが、1933年だか32年のブラッセイ年艦に寄稿した記事では結構適当なことを書きまくっていて、割と個人的な評価は低い。

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エドワード・ルイス・アトウッド  Edward Lewis Attwood 1871-???
造船官。
グリニッジの海軍大学で講師を勤め、造船学並びに艦艇に関する複数の著書でも知られる。
ダインコート体制では造船局長補佐となり、フッドからネルソンに至る主力艦の設計では主導的な役割を果たした。
重要な人のはずだけれども、管理人は没年すら知らない。謎の人物

備考
平賀譲の「欧州視察所見」には「英国海軍主力艦設計者は小官の旧師にして、その副たる人は友人なるを以て度々閑談せるに」とあるが、ここでいう旧師とは彼の事を指す。

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フレデリック・チャールズ・ドライヤー Frederick Dreyer1878-1956

海軍軍人、技術者。最終階級は大将
アイルランドのパーソンズタウン出身。1900年に海軍学校を卒業、砲術士官としてドレッドノートを含む複数の艦に勤務。
1907年から9年まではベーコンのもとで造兵局長補佐となり、射撃盤の開発に尽力。これはのちに
ドライヤー射撃盤(Dreyer table)として、第一次大戦では多くの英戦艦に搭載された。
(その陰で海軍内での開発でないという事でより優れたポーレン式の導入が進まなかったり、その技術が海外に流出したりという事もあったが)

その後もジェリコーのお気に入りとして順調に出世し、1913年には大佐に昇進。ユトランド海戦時はジェリコーが将旗を掲げたGF旗艦アイアン・デュークの艦長を務めた。海戦中同艦は優秀な射撃精度を見せ、戦艦ケーニヒに多数の命中弾を与えたほか、水雷艇S35を撃沈したと言われている。
その後は造兵局長並びに軍令部に新たに設けられた砲術部門の責任者を務め、主に欠陥が指摘された徹甲弾の改正で功績を上げている。
1923年には将官となり、軍令部の要職や戦隊司令を歴任。1939年に退役するも、開戦を受けて1943年まで活動している。1956年没

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スタンリー・ヴァーノン・グッドオール(グドール) 1883-1965
造船官。第7代造船局長

備考
当時留学中の平賀譲とは同級生であり、後年も親交を保っていた。上の平賀の言葉にある「その副たる人」も彼の事

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まったくもって個人的な話だが、想像以上に長生きな人が大半で驚いた。高官はかりなので当たり前なのかもしれないけれど。

米国

ジョン・エリクソン(スウェーデン出身)以外で技術者の名前を全然知らないという・・・。あとはデヴィッド・テイラー少将くらいか。

ビリー・ミッチェル Billy Mitchell   1879-1936
陸軍軍人 最終階級は少将(死後) 
戦艦不要論を掲げ 
彼の呼びかけで行われた1921年の実験では、大型爆弾の至近弾により弩級戦艦オストフリースラントを含む標的艦を撃沈する事に成功。
静止目標の上、ダメージコントールも行われない状態とはいえ、のちの航空機の時代を予見させる成果を挙げている。
第二次大戦では、彼の名前からとられた双発爆撃機B-25ミッチェルが有名

その他

エミール・ベルタン

ステパン・マカロフ 1849-1904
ロシア海軍の軍人 最終階級は中将
初の実戦となった露土戦争では、水雷艇母艦コンスタンティン大公を率いて活躍。
外装水雷による敵装甲艦の撃沈並びに、史上初となる魚雷による敵艦艇撃沈に成功している。

企業

日本
正直主力艦の建造や関連装備の開発となると官営の工廠が中心で、民間企業が関わる事は少ないイメージがある。
とりあえず該当する企業となると三菱、川崎、日本製鋼所あたりだと思われるが、これはこれで大物すぎるので後日ゆっくり加筆したい。

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イギリス

最近更新していないのでメモ。
装甲艦時代の始まりにあたる1860年代あたりで海軍本部とつながりが強い造船会社といえば、テムズ川流域を本拠とする企業だったが、後述する理由もあって20世紀までに衰退する。
その他の地域では、まずスコットランドのクライド周辺の企業が初期に頭角を現している。
造機出身のネイピア・アンド・サンズ(のちにベアードモアにより買収)の成功を皮切りに、フェアフィールド、J&Gトムソンなどが登場した。
これよりもやや遅れて、ニューキャッスルに本拠を置く大砲屋アームストロングが軍艦製造へと乗り出し、90年代以降の建艦競争では最も有力な会社の一つに成長する。
そして最後あたりに乗り込んできたのがシェフィールドの鉄鋼屋で、各地の造機造兵造船所などを吸収して重要な位置を占めるように。 
代表的な物はジョン・ブラウン(クライドのJGトムソンを吸収)、キャメル(リバプール近くのレアードと合併)、ヴィッカース(バローの造船所を買収)など。

これらに企業は19世紀末の二カ国標準の設定から、20世紀はじめドイツとの建艦競争・第一次大戦に至るまでに全盛を迎えるが、いずれも戦後の不況や軍縮時代により大打撃を受けている。
そういった民間企業の伸び悩みは、結果として英国自体が持つ造船・造艦能力の弱体化へとも繋がっていった。

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テムズ鉄工所 Thames Ironworks
ロンドン東部のテムズ川とバウ川との合流地点を中心に存在した造船・製鉄会社。1837年トマス・ディッチバーン並びにチャールズ・メアにより設立。
名前に鉄工所とあるだけに早期から鉄船の建造を行っており、それもあって1859年には装甲艦ウォーリア建造の契約を獲得。
英国初の装甲艦であり、鉄製船体を持つ装甲艦としては史上初の同艦を建造した事で知られている。
また同社は英企業の中でも早期に艦艇輸出業に進出した会社であり、オスマンのメスディイェ、プロイセンのケーニヒ・ヴィルヘルムをはじめ、ロシア、スペイン、ギリシャ、ポルトガル、ルーマニアなどに艦艇を輸出している。
この成果などもあり、一時は「一社でフランス一国をも上回る」と言われる程の大造船所としての地位を確立していた。

元々ロンドンの大動脈であるテムズ川流域は、木造帆船時代より造船業の中心であり、同社の業績もその遺産に支えられた面がある。
しかし軍艦が鉄と蒸気の時代に突入して久しい19世紀後半、テムズの造船業は不利な要素が重なっていった結果衰退。
同社もタイン、バロー、クライドなどブリテン島北部を拠点とした他社に押されていった。
なお不利な要素については以下の点があげられる。
・ロンドンに近い分、賃金や税金が高い
・テムズ川は交通量の割に手狭で、大型化する艦艇を建造するための設備を設けるのが難しい
・主要原材料である鉄鋼や石炭などは北部で生産される為、現地の企業より輸送費がかかる
・(複合装甲以降は)装甲板の製造設備を持たず、ライバル企業の物を使用する必要があった

世紀末には日本向けに当時最新鋭の戦艦(富士・敷島)を建造して健在ぶりをアピールするも、ドイツとの建艦競争による特需の中でも状況は変わらず。
1912年オライオン級サンダラーの建造を最後に閉鎖された。

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コヴェントリー兵器工場 Coventry Ordnance Works
1905年にジョン・ブラウン、キャメル=レアード、フェアフィールドといった会社の出資により設立された兵器工場。主に艦砲の砲架・砲塔を製造した。
元々はハーバート・ホール・マリナーが1895年に設立したものだが、当時アームストロンングとヴッカースの2社が独占していたこの業界に参入しようとした上記三社により吸収される形になる。
経営は当初マリナーに任されていたが、1908年彼は(おそらく受注を増やそうと)ドイツ軍事産業の規模を過大に評価したデータを流布し、国内の危機感を煽るという事件を起こしている。
この効果もあって実際英国では戦艦建造が加速し、同社の砲架も一部戦艦を含む艦艇に使用された。
(なおマリナーは事件の影響か職を退き、新たに最近まで造兵局長であったベーコン少将が代表に就任している)
そして大戦による特需を受けるも、終戦後は他社と同じく苦境に陥り、コヴェントリー工場は25年に閉鎖。
一方でスコッツタウンにあったもう一つの工場は、ハーランド・アンド・ウルフが購入して同社のディーゼル工場となったが、海軍休日明けを控えた36年より兵器製造を再開。
その後69年にアルビオン・モーターズに売却されるまで生産を続けた。

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イングリッシュ・スチール社 English Steel Corporation
1928年に設立されたヴィッカース=アームストロング社傘下の製鋼会社。
同社に加え、キャメル・レアードより獲得した製鋼設備を保有しており、戦間期から第二次大戦までの装甲生産量は英国全体の半数を占めた。
(残りの半分はファース=ブラウン並びにベアードモア)
艦艇並びに戦車に使用された同社の装甲は、浸炭非浸炭を問わず、他の二社並びに独クルップ社製の物を上回る性能だったという。

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イタリア

テルニ製鋼所
1884年にテルニに設立されたイタリア初の大規模製鋼所。主に装甲用の鋼板の製造を当初より行っており、中でも二次大戦期に同社が製造した浸炭装甲(TC鋼)は高い評価がなされている。

1905年にはヴィッカースとの共同出資で「ヴィッカース=テルニ」を設立、テルニ並びにスペツィアに工場を設け大砲などの国内製造に乗り出す。
同社は第一次大戦後の1927年より造船会社であるオデロ社、オーランド社と合併し「オデロ=テルニ=オーランド(OTO)社」に。
戦後は造船所をアンサルド社に売却。1953年には社名をOTOメラーラに変更し、76mm速射砲に代表される兵器メーカーとして存続。2016年より防衛産業最大手のフェンメッカニア社(現レオナルド社)の一部に。
一方本家のテルニ製鋼所自体は今日も操業を続けている。

アンサルド社
現在はレオナルド社の一部として社名を保っているが、艦艇の製造は行っていないようだ。

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フランス

サン・シャモン社
正式名称は「Compagnie des forges et aciéries de la marine et d'Homécourt」(オメクール海軍向け製鋼会社とかでいいんだろうか・・・)と非常に長いため、本拠を置くサン・シャモンの名で呼ばれる事の方が多い。

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オランダ

造船事業所 Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw 
第一次大戦後の1922年にフルカン、ゲルマニア、ヴェーザーと言ったドイツ企業によって設立された会社。
実態としてはヴェルサイユ体制で制限された軍事技術の保全を目的に、各国に作られたダミー会社の一つであった。
主な事業は潜水艦の開発建造で、このほかにはフィンランドのイルマリネン級海防戦艦の設計や自国オランダの巡洋戦艦計画にも参加している。

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その他

ハーヴェイ合同製鋼会社
各国の主要な装甲生産会社が参加した国際カルテル。
元々はネジに関する発明等を行っていた米国のヘイワード・ハーヴェイが1886年に設立した会社。89年に浸炭装甲の先駆けであるハーヴェイ鋼を開発。
同装甲は当初こそ「鉄鋼屋でもない奴が作った装甲」と低く見られていたが、実験にて革新的な性能を見せた事で英仏を含む先行していた装甲メーカーにも採用された。

この際にハーヴェイの現地会社と各国のメーカーがライセンス契約を結ぶ形となったが、ここで出来たハーヴェイ鋼の製造という繋がりが、装甲の価格固定、企業戦略の交換、特許内容に関連した利益の分配などを行う場になったと考えられている。

その後はこの枠組みに参加する1社であるクルップ社が、より優れたクルップ鋼を開発するが、この権利も取得する事で体制を維持。
1900年に各現地会社が合併しハーヴェイ合同製鋼会社に。理事長にはヴィッカース兄弟の一人であるアルバート・ヴィッカースが就任。
以降は把握していないが、1909年にクルップ鋼の特許が切れたのを境に存在感を失って行くようだ。

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艦名考

・艦名の「格」は保てるのか?
いきなりくだらないというか、大勢の方に喧嘩を売るような内容で申し訳ないが、海軍の艦艇一覧などを見ていくと、「新しい艦ほど名前の格が下がっていないか」なんて思ったことはないだろうか。

例えば大和型戦艦で戦艦として竣工した艦は、古代王権の中心であり日本の代名詞でもある「大和」、首都東京を有する近代日本の中心「武蔵」の2隻。
史上最高の戦艦に最高の名前を、という意気込みが伝わってくるが、三番艦は「信濃」である。
一応信州は神州に繋がるとも言うし、戦中には松代大本営として首都移転計画も存在したが、大和武蔵に比べると格落ちは否めない。

そもそも以前の戦艦の艦名にしても、新型艦ほど「格」が上がっているかといえば、正直言い難い面があると思われる。
扶桑(日本の美称)、山城(長年都が置かれた)、
伊勢(アマテラスを祀る伊勢神宮が存在)、日向(記紀神話における天孫降臨の地)
長門(本州の最西端、薩摩とともに明治維新の中心に)、陸奥(本州最北端)
加賀(百万石)、土佐(幕末の雄藩)
このように常に最高の艦名を、と望むには、旧国名は少々数が少なすぎるという事になるのかもしれない。

他にもドイツの大型巡とかネタにできそうな分は色々あるが、これ以上失礼な事を書くのは気が進まないので自重したい。
ただ一つだけ書いておくと、ドイツ海軍があまり大きくなかった頃に整備された海防戦艦、ジークフリート級やオーディン級はいずれも伝説上の英雄神格の名前がついており、正直役不足感がすごい。
後の高海艦隊の戦艦は地名、大型巡は人名なので余計に。

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・「アドミラル」級の仲間外れ

近代の英海軍において「アドミラル級」とよばれる主力艦は2クラス存在する。一つは1880年代のバーベット艦、もう一つは第一次大戦中に計画された大型の巡洋戦艦である。
後者はフッドのみが完成したのでクラス名で呼ばれる事は少ないが、このように一番艦の名前などではなく、各艦名に共通する特徴からクラス名が決定される場合もある。
(英国海軍であれば、ズールーやコサックなどの部族名を用いたトライバル級も有名である。他にはR級などイニシャルを統一する例も)
そしてアドミラル級の場合、英海軍が生み出した過去の名提督の名前が用いられる訳だが、ここで一つ疑問がある。
先に出した80年代の方のアドミラル級の艦名とその由来を見てもらいたい。

コリンウッド  トラファルガー海戦で英艦隊の次席司令官だったカスバート・コリンウッド中将
ロドニー アメリカ独立戦争にて指揮を執ったジョージ・ロドニー大将。これまでの常識に反して敵の戦列に突撃する戦法を使用し、これはネルソンに至るのちの提督にも受け継がれた
ベンボウ ジョン・ベンボウ中将 スペイン継承戦争にて指揮下の艦長が職務放棄を行うという中奮戦するも戦死。勇敢なベンボウの名で語り継がれる。
ハウ オーストリア継承戦争からフランス革命戦争までを戦った歴戦のリチャード・ハウ大将
アンソン 病気と天候に苦しみつつ世界一周してのスペイン船並びに植民地攻撃任務を成し遂げたジョージ・アンソン元帥。七年戦争時には海軍大臣も務めた
キャンパーダウン 1797年英国とフランスの属国となっていたオランダの間で起こった戦い。キャンパーダウンの海戦

実は提督の本名以外が混じっているのである。

実際はこの時に英艦隊を率いたアダム・ダンカン提督は、海戦後「キャンパーダウンのダンカン子爵」の位を与えられており(子孫はキャンパーダウン伯爵に)、ダンカン=キャンパーダウンという事で採用されたということか。
それにしても一隻だけ本名じゃなくて称号が艦名になっている事に違和感はなかったのだろうか。
なおダンカンの名前自体も、十数年後にダンカン級戦艦のネープシップとして使用されている。

称号といえば初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューも著名な海軍軍人であり、18世紀には戦列艦サンドウィッチが建造されている(先述したロドニー提督の旗艦になったことも)。
するとあの2クラスの中にサンドウィッチという艦名が紛れ込んでいても、アドミラル級なのだろうか。

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・由来が同じ艦が同時に存在する例

上で扱った戦艦ダンカンの就役時、キャンパーダウンはすでに一線を退いて予備艦になってはいたが、未だに健在であった。
このようにある海軍にて、同じ由来を持つ艦が同時に存在するという場合もある。
英海軍にて他の例を探してみると
1864年竣工の装甲艦プリンス・コンソート(王配の意)、同年竣工の砲塔装甲艦ロイヤル・アルバート(共にヴィクトリア女王の王配アルバートに由来)
アルバートは61年に没したので、両艦ともそれを偲んで名付けられたと思われる。
1871年竣工のオーディシャス級装甲艦アイアン・デューク(ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの愛称)、1853年竣工のスクリュー推進戦列艦デューク・オブ・ウェリントン
71年時点で後者はすでに予備艦扱いだったが、一応就役中。

もっとややこしい話として、他国海軍で共通する場合も結構ある。

エンタープライズ(冒険心)
→アメリカのヨークタウン級空母とイギリスのE級巡洋艦(おそらくこのネタでは一番有名な組み合わせ)
ローリー(北米に最初に入植したイングランドの冒険者、それを由来とするアメリカの地名)
→イギリスのホーキンス級巡洋艦とアメリカのオマハ級巡洋艦
インヴィンシブル(無敵)
→フランスのグロワール級装甲艦とイギリスのオーディシャス級装甲艦(英仏は帆船時代に鹵獲した艦をそのままの名前で運用するなどしていたため、名前被りは非常に多い)
オーシャン(海)
→フランスのオセアン級装甲艦とイギリスのプリンスコンソート級装甲艦
フォーミダブル(英:恐ろしい/仏:素晴らしい)
→フランスのアミラルボーダン級装甲艦とイギリスのフォーミダブル級戦艦(なお英海軍の先代フォーミダブルも予備艦歴が長いので被っている)
テリブル(英:ひどい/仏:素晴らしい)
→フランスのテリブル級装甲艦とイギリスのパワフル級防護巡洋艦
デヴァステーション(荒廃)
→フランスの装甲艦デヴァスタシオンとイギリスの装甲艦デヴァステーション
龍驤(伝説上の生き物) 
→清国のレンデル砲艦と熊本藩が購入した日本の装甲コルベット
プリンツ・オイゲン(17~18世紀オーストリアの軍人、サヴォイア家出身で主にオスマンやフランスとの戦争で活躍した。人名系としては異例の人気者)
→オーストリアのテゲトフ級戦艦とイギリスのロードクライヴ級モニター
→イタリアのデュカ・ダオスタ級軽巡、ドイツのアドミラル・ヒッパー級重巡
・トルデンスキョル、(デンマーク=ノルウェー同君連合時代の人物)
→デンマークの装甲艦(というよりは松島型みたいな巨砲搭載型防護巡を海防艦寄りにした艦、もしくはデンマーク版イタリア級とも言える?)とノルウェーのハーラル・ホールファグレ級海防戦艦

・インディペンデンス・インディペンデンシア(独立)  文字通り植民地から独立した国(主に新大陸)の艦艇に多い。後者はもはや何隻あるのかと。

戦艦の時代ではないが、トラファルガーの海戦では戦列艦ネプチューン(英)とネプチューヌ(仏)、ネプチューノ(西)の3隻が一堂に会するという大惨事が起こっている。

他の例が見つかれば編集予定

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・英モニター艦名伝

第一次大戦時、イギリス海軍は陸上砲撃用に戦艦主砲などの巨砲を搭載した、小型浅喫水の砲艦を複数建造している。
これらは巨大な連装砲塔を載せた姿から、南北戦争で活躍した「モニター」を艦種名称としたが、実際はかなり別物というのは余談。
それを抜きにして、新しい艦種だけあってか、各艦は結構珍しい名前があったりする。
一通り見ていくと

アバークロンビー級
一番艦アバークロンビー、二番艦ヘイブロック、三番艦ラグラン、四番艦ロバーツ
実は米国より購入した14インチ砲を搭載するため、計画時には南北戦争時のアメリカ軍人の名前を使用する予定だった。
(一番艦アドミラル・ファラガット 二番艦ジェネラル・グラント 三番艦ロバート・E・リー 四番艦ストーンウォール・ジャクソンと、ちょうど南北より二人ずつ)
しかし当時中立を守っていたアメリカから抗議されたこともあって、最終的には4隻ともイギリス陸軍の軍人の名前となった。
なおこちらの名称も当初はロードやジェネラル、アールといった称号がついていたのが、途中で無くなるという風にひと悶着あったようだ。

ロード・クライヴ級
一番艦ロード・クライブ、二番艦プリンス・ルパート、三番艦サー・ジョン・ムーア、四番艦ジェネラル・クロフォード、五番艦プリンス・ユージーン、六番艦アール・オブ・ピーターバラ、七番艦サー・トマス・ピクトン、八番艦ジェネラル・ウルフ
前級とは違い、各艦とも称号を含む艦名に。
また数が多い分だろうか、陸軍や海軍だけでなく英国人以外も加わるなど、ちょっと共通点が薄くなった感じも。
というかオーストリアと戦争している最中にプリンツ・オイゲンの名前を使うのはどういうセンスなのか。
本級の内ピクトンとピーターバラはアドリア海のオーストリア領攻撃に参加したりしているが、もしユージーンが加わっていたらどうなのだろうか。
(上で取り上げる予定だが、この頃のオーストリア海軍にはテゲトフ級プリンツ・オイゲンが存在したりする)

マーシャル・ネイ級
一番艦マーシャル・ネイ 二番艦マーシャル・スルト
2隻ともナポレオン戦争時代のフランス陸軍元帥。一次大戦時は同盟国とはいえ、まさかのチョイスである。

エレバス級 
一番艦エレバス 二番艦テラー
第一次大戦最後の(戦艦主砲搭載型)モニターである本級は、人名ではなく陸上攻撃艦として伝統のある名前を採用している。
エレバスはこれが五代目で、以前の艦はロケット艦、臼砲艦、浮き砲台、オーディシャス級装甲艦と、最後を除いていずれも陸上砲撃用の艦。
テラーに至ってはこれが八代目で、以前の艦はやはり臼砲艦や砲艦、浮き砲台など。
特に六代目テラーは米英戦争にて、初代エレバスなどと共にアメリカ国歌でも歌われるマクヘンリー砦への砲撃に参加。
さらに1839年より43年にかけて、二代目エレバスと共にジェームズ・クラーク・ロス率いる南極探検に従事し多大な功績を遺すも、45年より始まるジョン・フランクリンの探検で2隻とも消息を絶っている。
という風にエレバスとテラーの2隻というのは陸上砲撃艦として有名なコンビであり、こういった艦種に用いられたのも納得の名前と言える。

これらの艦は多数が建造されたように、見た目とは裏腹に結構有用な艦であり、第二次大戦でも英海軍は新たなモニターを建造している。
その際にはロバーツとアバークロンビーと、過去の艦名が流用された。

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・地名を冠する艦とその建造地について
艦名に使用される地名には、造船所や工廠などの所在地が含まれており、艦名の由来となった土地で建造された艦もいくつか見受けられる。
簡単に言うと戦艦ニューヨークがニューヨークのブルックリン工廠で建造されたような話であって、今回は他の例を探してまとめていきたいと思う。

(第二次大戦期の)英タウン級軽巡
10隻中建艦に関係する地名を有するのは6隻。(エジンバラにもフラワー級などを建造していた造船所があったそうだが今回は除外)
サウサンプトン 水雷艇や駆逐艦で有名なソーニクロフトの本拠が存在。
→ 建造はクライド(グラスゴー)のジョン・ブラウン社で関係なし
ニューキャッスル アームストロング社の創業地であり同社のウォーカー造船所、エルジック兵器工場などが置かれた。
→ 建造は合併後のヴィッカース=アームストロング社所有となったウォーカー造船所であり、大いに関係あり。
シェフィールド 鉄鋼会社としてのヴィッカース、ジョンブラウン、キャメルの創業地。
→ 建造はヴィッカース=アームストロング社だが、建造はヴィッカース時代より保有していたバロー造船所ではなくウォーカー造船所。
グラスゴー クライド湾一帯の造船地帯の一角であり、ジョンブラウン、ベアードモア、フェアフィールドなどの造船所がおかれる
→ 建造はグリーノックのスコッツ造船所。一応クライドの造船業者の一つであり、グラスゴーとは30kmぐらいしか離れていないので、「幕張もほぼ東京みたいなもの」と思えば関係あり。
リバプール マージー川の対岸に位置するバーケンヘッドはキャメルレアードの造船所が存在する。
→ 建造はフェアフィールド社なので関係なし
ベルファスト 北アイルランドを代表する造船所であるハーランド・アンド・ウルフの所在地
→ 建造は同造船所。
という風に関係あったりなかったりという感じである。

他の例だとボルティモア級ボストンはボストン工廠ではなく、クインシーのフォアリバー造船所で建造みたいな例も。これも幕張は東京(略)といえばそうなるか。
ちなみにニューオリンズ級並びにボルティモア級に存在した巡洋艦クインシーは、ちゃんと(?)同造船所での建造となる。

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記念艦考

・艦種別に(編集中)

装甲艦
・装甲フリゲート
ウォーリア(英) ポーツマス港にて保存公開
・中央砲廓艦
・砲塔艦、バーベット艦
なし 視認できる残骸としてはサーベラス(オーストラリア)あり
・装甲砲艦・モニター艦、小型の砲塔艦など
(蘭) デンマーク スウェーデン オーストリア・ハンガリー ワスカル(ペルー・チリ)

戦艦
・前弩級艦
三笠(日)
・弩級・超弩級艦(ワシントン条約締結までに建造)
テキサス(米)
・弩級・超弩級艦(ワシントン条約締結~失効までに建造)
なし
・弩級・超弩級艦(ワシントン条約失効以降に建造)
米海軍多数

残念ながら保存に至らなかった、もしくは現在まで維持されることなく失われてしまった艦も存在する。
雪風
志賀 
オレゴン 
ハートフォード
ウォースパイト

参考文献

→ 文量がまとまってから近日中に

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意識が高いんだか低いんだかわからない管理人の戯言(雑記より抜粋)

2018/10/27
「この人がそう言ってるのだから正しいのだろうけど、それが正しい理由がわからない」みたいな事態はなるべく避けたいものだが、どうしても起こり得る事だと思う。
まあ直接ソースを聞けばいいのだけれど、一次資料とか出されてもこっちのアクセス能力が足りないのなら結局意味がないのもある。

2019/6/16
最近覚えた言葉「レトロニム」
軍事用語でも結構あるはず、というか「前弩級戦艦」も再定義という意味ではこれに当たるのだろうか。まあこの単語が登場した頃は最新でなくなっただけで、兵器としてはまだまだ現役だが。

2019/9/14
自分が頑張った事に「恥ずかしい」なんて感情を抱くはずがない。とある人がそんな事を言っていた記憶があるので普通に更新を続けたいと思う。(もちろん他人に迷惑をかけない範囲で)

2019/12/3
仮にネット上を中心に広まった誤った説があるとして、その提唱者自身が訂正を別の媒体(書籍等)で行った場合、それは訂正の効果として正しいのだろうか。
いや訂正した媒体によるんだろうが、間違いなく温度差が出るだろうなと。

2020/2/17
一字一句正しいかは自信がないが「艦艇研究も冷徹な歴史家の目によって行われるべきである」みたいな言葉は、遠藤某氏の言葉だったと思う。  
正直当時の状況には詳しくないので勝手な解釈だが、おそらく戦後以降研究の中心であった旧海軍関係者の回想(専門家であると同時に当事者だったという立場からバイアスがかかる可能性が否定できない)に頼るだけでなく、学問的に真実を追求しなければみたいな主張のはずである。    
管理人にとってもかなり耳が痛い内容(自分みたいに専門知識やら原史料を持たない人間はどうしても権威主義に陥りがちと勝手に思ってたりも)であると同時に、一種の希望を見せてくれるようで好きな言葉である。ただ一方で、発言者自身ははたして立場に囚われずに真実を追及出来たのか、という話になると色々難しい点を見出さずにはいられない。
それでも最初から立場を明確にして意見を出してくれるだけでも、すごくありがたい事なのは確かにあるのかなと思ったりも

↑ 相変わらず何様だよという

ついでに日頃の疑問をここに残しておくと、兵器が云々とかのミリタリー色の強い内容を扱った本で研究史をまとめてる本ってどれくらいあるんだろうか。(もちろん一般書なら別のテーマでも研究史なんて載せないのが普通だが) 
まあ参考文献の項目から当たれって話か

自由だあああああああああああああああああああああああああああああああああああ

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