おまけ終 艦砲と(略)その他各国戦艦編
元ページ2015年11月より公開、2020年1月 ロシア戦艦編の加筆に備え分割の上移設
おまけの方が長くなってしまったが、最後には比較的小規模な海軍の主力艦や建造計画について語って終わりたい。
なお大体の艦は一次大戦期までの建造で、それ以降も防御面での改正を受けないまま艦歴を終えている。そういった艦に対して、二次大戦期の艦砲に対する安全距離を求める意味はあるのかと言う点から、本ページでは表の作成は一部を除いて行わない方針である。ただ他で何かするかも。
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オランダ
はじめに
まずは純粋な戦艦と言える艦を保有する事はなかったが、二次大戦期に戦艦建造計画が存在したオランダから。
同国は大航海時代の先達であるスペインやポルトガルを追い抜いて、一時期は海上覇権を確立した程の国家だが、その後はイギリスやフランスとの争いに敗れ、近代では特に列強のイメージは無い。
この時代の海軍もまた、かつてのライバルと比べると中小海軍と言わざるを得ない規模に縮小しており、本国と数少ない植民地であったオランダ領東インド(インドネシア)防衛を主としている。
弩級艦までの主力艦を軽く見ておくと、同国はクリミア戦争での装甲浮き砲台の登場を受けて、57年より戦列艦もしくはフリゲートの改造でこの種の艦の整備を計画。61年から70年までに8隻を就役させている。
ただしこの内最初に建造された7隻は、機関を持たず、帆も確認できないようなので、移動は曳航に頼る非自走式の装甲浮き砲台であった。
また7隻の内ネプトゥヌスを始めとする5隻は、60ポンドもしくは8インチの前装滑腔砲を32門搭載するが、4.5インチの錬鉄装甲は砲甲板の前面と後面のみに施され、肝心の側面や船体の水線部は非装甲。
続くジュピターとドラークの2隻では備砲を十数門に減少するかわりに、側面ならびに船体を装甲範囲に収めている。
そして最後に改装されたデ・ロイヤルが、唯一機関を搭載し汽走可能な装甲浮き砲台に。本艦は排水量3000t弱で、60ポンド砲14門と主要部位に4.5インチの装甲を維持しつつ、南軍のヴァージニアに似たケースメイト艦となった。
なお同艦は53年に完成した大型フリゲートからの改造だが、元はその艦自体も31年に起工し作業が止まっていた74門戦列艦の改造という事で、装甲艦になるまで大きく姿を変えた興味深い経歴の艦である。
60年代以降にはより本格的な装甲艦として、ライフル砲をコールズ式の砲塔に収めた、砲塔艦かモニターに分類出来る艦が主流になる。
70年代までに排水量2000~1500tで連装砲塔1基を持つ小型艦を17隻、砲塔2基を持つより大型の艦を2隻、英仏より購入するか国内で建造している。
(またこれらに加え500t以下で小口径砲を搭載した河川用5隻も)
まず大型艦の代表として、コーニン・デル・ネーデルランデンは77年に国内で竣工。モニターではなく一定の乾舷と帆装を持った英国式の砲塔艦で、排水量5400tとオランダ装甲艦では最も大型な艦であった。
主砲はアームストロング式の11インチ前装ライフル砲を連装砲塔2基で計4門、装甲は艦の水線部全周と、前後砲塔間の舷側上部を覆う凸字型の垂直装甲を持ち、厚さは200~150mm。また砲塔も305~230mmの装甲を有する 。
材質はすべて錬鉄製。なお水平装甲は有していない。
そして小型艦の方を見ていくと、その中で初期に獲得したバッフェル、スコルピオンの両級(それぞれ記念艦として現存する艦がいる)は前者は素の乾舷、後者はブルワークという違いはあるが、こちらも比較的乾舷を持つ砲塔艦。
主砲はアームストロング9インチ砲を2門搭載。装甲は水線部に6インチから3インチ、砲塔11インチ。また砲塔の搭載位置が高いバッフェル級は砲塔と船体装甲の間にバーベットが確認できる(厚さ不明)。
一方で同時期に整備されたハイリガーレー級やそれ以降の艦において乾舷は減少し、よりモニターに近い船体に変化(その一方で上構が大きいのは特徴的)。
また主砲はアダー級以降ではクルップ式の22口径28cm後装砲が搭載された。装甲は水線部5.5インチの艦が多いがドラークのみ8インチに増厚。また砲塔11インチに対しドレークとマタドールが12インチのようだ。
そして理由は把握できていないが、続く80年代には新たな主力艦の整備は行われず。新たな艦の竣工は94年まで待つ必要がある。
ここで建造されたレイニア・クラーゼン(2400t、主砲35口径21cm砲1門。装甲複合装甲で舷側120mm、砲塔280mmなど)は、低乾舷、砲塔一基のモニターという意味で、後期の砲塔艦の要素を受け継いだ艦であった。
また同年には、防護巡ながら重武装(前後に28cm砲と21cm砲、左右に17cm砲を1門ずつ菱形配置)のコーニンギン・ヴィルヘルミナ・デル・ネーデルランデンも竣工しており、この艦も主力艦的と言える。
それらの艦は例外として、90年代以降に主力を構成するのは新たな様式を持つ海防戦艦である。
90年代と言えば列強海軍では装甲艦から近代戦艦(前弩級戦艦)への転換が起こった時期であるが、ここで整備された艦は技術的には同じ進歩を取り入れつつも、それらの艦と比べると小型で、そのような艦のみを主力に据えた点は、同時期の北欧海軍などとも共通する。
海防戦艦の整備は95年より竣工するエヴァーツェン級より、以降弩級戦艦の時代に突入した時期まで続き、コーニンギン・レゲンテス級、マールテン・ハーペルソン・トロンプ、ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク、そして1910年竣工のデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンまで5クラス9隻を建造している。
少し乱雑だがまとめて紹介すると、まずこれらの艦は鋼製の船体で、排水量は3500~6500t。帆装は持たずに最大速力は16ノット。
また船体形状は(船首楼の有無やブルワークの範囲など差異もあるが)、各艦とも比較的高い乾舷を持ち、その前後に主砲塔を1基ずつ搭載するという、小型の前弩級艦のような艦容を持つ
主兵装はいずれも長砲身を持つクルップ式の後装砲。また副兵装は門数こそ少ないが、この時代重要視された中口径速射砲に当たる15cm砲が導入された。
具体的に見ていくと、エヴァーツェンは35口径21cm砲を、前部では防楯付きのバーベットに連装で、後部では後部開放式の防楯のみの単装砲で計3門搭載。副砲は35口径15cm砲2門を中央部両舷のスポンソン上に搭載。
続く3クラスで主砲は40口径(37口径)24cm砲単装2基2門に。独墺の主力艦でも採用艦があるクルップ式の24cm砲だが、本砲はより重い砲弾を使用する。
この砲塔はバーベットと密閉砲室を備え、揚弾機構が艦内部に達する(ただし縦向きで複数発分の弾薬を揚弾する、戦艦主砲ではあまりない形式)、近代砲塔と呼べる要素を持つ物になった。
そして副砲は40口径15cm砲になり、レゲンテスでは艦橋横のスポンソンに計4門搭載。そしてトロンプでは配置は同じだが円筒砲室を持つ物になり、ヘームスケルクではそれに加え中央に防盾付きの2門を追加し計6門に。
プロヴィンシェンは主砲を強化し42口径28cm砲2門に(砲塔は途中換装室を持つ物に)なる一方、副砲は再び4門に。
最後に防御面、船体の装甲配置は各艦とも共通しており、垂直装甲は艦首尾を含む水線部全周を防御するが、それよりも上は非装甲。同時期の戦艦に見られる上部装甲帯による装甲範囲の拡大は見られない。
装甲厚はどの艦も船体中央部150mm、艦首尾100mm。一方で垂直装甲全般の材質は最初の4級がハーヴェイ鋼、プロヴィンシェンではクルップ鋼と、材質の進歩に対応し対弾性能を向上させている。
そして水平装甲は湾曲して装甲帯の下端に接続する亀甲甲板を設け、厚さは50mm(25mm二枚重ね)。前後部の同甲板は両端に行くにつれ下向きに傾斜する。
これに加え、おそらく垂直装甲の高さが狭く、直接砲弾が飛び込みやすい事への対策と思われるが、煙路や機械室上の通風装置などに伴う開口部にはコーミングアーマーを設けている。
主兵装の防御はエヴァーツェン級がバーベット240mm、防盾150mm。24cm砲艦ではレゲンテスがバーベット250mm、トロンプとヘームスケルクは200mm。
これらの艦の砲室前盾はバーベットと同厚する資料もあるが、より薄い150mmもしくは100mmとも。少なくとも国立公文書館所蔵の図面の表現では明らかにバーベットより細い線で描かれているように見える。
どうやらプロヴィンシェンでは共に250mm厚になったようだ。副砲防御はプロヴィンシェンが定かではないが、それ以前の艦は75mm厚を持つとされる。
以上のように新しい技術を取り入れ強化していった事が分かるが、それでも通常の主力艦と比べて半分以下の規模という制約が大きい面は否定できない。個艦の戦闘力では、装甲巡以下が相手ならなんとか対抗出来るという程度だろう。
大型艦が行動できないような沿岸域での活動を主とするならそれで充分な場合もあるが、オランダ海軍の場合蘭印への派遣も考える必要があり、この場合より強大な戦力を相手にする可能性があるのも悩ましい所である。
また最後の艦が竣工するのは1910年と、弩級戦艦や巡洋戦艦の時代に突入している時期であるのも、列強主力艦との比較を厳しくしている点である。
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1913年戦艦案
計画のみ(詳細決定前に計画中止)
184m 24,605t 50口径14インチ砲 連装4基8門 22ノット
装甲厚
垂直装甲 250mmKC → 25mmLNS傾斜約70度内傾
砲塔前盾 300mmKC傾斜不明
バーベット(露出部) 300mmKC
バーベット(艦内部) 180mmKC → 120mmKC
水平装甲 25mmLNS → 25mmLNS
砲塔天蓋 100mmKNC水平~傾斜(角度不明)
上部装甲帯 → 甲板 あり
上部装甲帯 → 傾斜部 微妙にあり
背景と艦の概要
上で見てきたように、長年海防戦艦の建造に留まっていたオランダ海軍だが、この時期には弩級戦艦の普及に加え、日露戦争に勝利し、急速に勢力を拡大していた日本海軍が防衛上の脅威と見做されるようになっていた。
そこで1912年、同海軍に対抗して外国より弩級戦艦を購入する方針を固めている。(それ以前にはスウェーデンのスヴァリイェやスペインのエスパーニャなどの情報と比較しつつ、主砲28cm砲を4または6門、副砲10.5cm砲10門を搭載する排水量7,500~10,500tの海防戦艦を検討していたが、情勢を鑑みて不採用に)
当初はドイツのゲルマニア社設計の常備排水量21,000t台、13.5インチ砲6門と、やや小型の艦を9隻も建造する予定だったが、より強力な艦を4隻求める形に変更。
これに伴い新たに独英伊墺の4か国11社が参加したコンペが行われるも、結局第一次大戦により計画自体が中止となった。
今回上の要目として挙げたのは、応募案の中で最も有力視されていたゲルマニア社806案である。
同案は常備2万4千トン台の船体に、他案よりも長砲身の50口径14インチ砲を前後部で背負い配置して4基8門搭載、副砲は15cm砲を上甲板上の砲郭に単装で16門。機関には重油専焼ボイラーと蒸気タービンを採用し、速力は22ノット。
同じドイツ企業による輸出戦艦であるギリシャのサラミスを上回り、各国が建造した初期の超弩級戦艦に相当する規模の艦となっている。
なお主砲はドイツ海軍では採用されなかった口径だが、サラミスように米国製の物を搭載するのではなく新設計される予定だったそうだ。
装甲配置
続いて防御面について、装甲配置を見ていくと、船体形状は平甲板型。重要区画上を通る甲板は基本上中下で船体中央のみ中央楼が加わる。
重要区画間の垂直装甲は、中甲板の高さまでに250mmの主装甲帯を設け、その上には中甲板から上甲板まで、副砲砲郭の範囲は中央楼の高さまでに180mmの上部装甲帯を持つ。また重要区画外の前後には艦首尾水線部に150~80mmが装甲帯が加わる。
水平装甲は重要区画上で上甲板(もしくは中央楼)と下甲板の二層式で、両方等とも25mm厚。また下甲板は同じ厚さで傾斜部となって装甲帯の下端に接続する。艦首尾では下甲板のみに50mm厚。
砲塔防御は前盾300mm、天蓋水平部100mm傾斜部不明、バーベットも露出部は300mm。この他には重要区画間では水雷防御隔壁40mmを設ける。
装甲材質はドイツ戦艦と同じく主な垂直装甲がKC、砲塔天蓋はKNC、甲板や薄い隔壁は低ニッケル鋼。(各自詳細は別ページ「装甲材質などの話」を参照)
一部補足として、垂直装甲は以前の21,000t案の時点では、主装甲帯の上端は下・中甲板の間と本案より低い代わりに、上甲板までの上部装甲帯には250mmから150mmにテーパーする装甲を用いるという、ナッサウ級などに近い形を採っていた。それが本案ではドイツ艦で言うとカイザー級以降の配置(の装甲厚を減じた物)に近い物になった事が確認できる。
また水平装甲は50mmという記述も一部にあるが、おそらく2層の合計厚か、重要区画外の下甲板の厚さを最厚部として拾ったかのどちらかだろう(そこまで詳しく書いてないカタログ本などでは割とそう言う例がある)。
なお21000t案も基本同じ配置だが、艦尾の舵機械室上部のみ厚さが85mmとなっている。本案も同じく増厚するかは資料不足により不明である。
全体的な配置としては基本的に一次大戦前の戦艦として一般的である、垂直装甲は重要区画の水線部以外にも前後部や上部を防御し、水平装甲は弾片防御程度の薄板を2層設けるという、「分散的」な配置を有している。
本案の垂直装甲は、中小口径砲に対する広い防御範囲を確保する他、一次大戦時の実戦例などと比較する限り、当時の不完全な徹甲弾(こちらも別ページ「戦艦の使用砲弾に関するメモ」参照)が相手であれば、自艦主砲クラスの大口径砲であっても外側の装甲で砲弾を砕くか炸裂させ、下甲板で弾片が重要区画まで突入するのを防ぐという、多重防御がある程度は有効に働くと考えられる。
本案は重油専焼なので、艦内部には同じく弾片の吸収効果がある石炭庫を持たない点もあるが。
これ以外には主砲塔の装甲は具体的な傾斜角などは不明であるが、前盾天蓋ともに有効な厚さである。また砲塔構造並びに使用装薬が独戦艦に準ずる物とすると、当時の英国式より誘爆対策に優れると考えられる点は、竣工時の環境においてかなり重要な部分だろう。(もっともこれはソフト面も重要だが)
比較とまとめなど
以上のように一部推定を含む物だが、本案の装甲は当時の環境における目立った弱点などもなく、輸出戦艦の中では上位に入る。
また一次大戦期の列強戦艦と比較した場合、巡戦と仏伊戦艦以外には主装甲帯の厚さで劣っているが、この部分も当時の砲弾へ不足している訳ではないし、その他の部位であれば比較できる事から、明確な不利とまでは言えないレベルと考えられる。
加えて攻撃面は肝心の主砲が製造されていないので、性能自体が未知数であるが、仰角が15度程度としても20km以上の射程を持つと思われ、またオランダ側からの要求で方位盤を有してる。この二点から当時の遠距離戦闘にも対応出来たと考えられる。
(指揮装置は以下で紹介する艦を含め、この時期の輸出戦艦は方位盤など、建造元の海軍では導入された最新機器が搭載されない事が多い。その場合には同じような主砲でも、遠距離砲戦時など実際の砲戦能力には差が生じる事になる)
また徹甲弾の性能はどのような物でも、当時は不完全な物が基本なのでハンデにはならないはずだが、これもドイツ戦艦と同じ物とした場合、それでも限界はあるが、炸薬の自爆防止や信管性能等の先進性から、当時の装甲配置への威力は口径以上の物があった可能性が高い。
以上の点から直接戦闘での能力は竣工時の金剛型に勝り、扶桑伊勢型に対しても主砲門数以外は完全には劣りはしないという、建造されていれば中々有力な艦になっていただろう。
もちろん二次大戦時の両艦に対抗するとなると、同レベルの大改装が必要と思われるが。
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1047案巡洋戦艦
計画のみ(決定前に計画中止)
241m 27,988t 50(54.5)口径28cm(283mm)砲 3連装3基9門 33ノット
装甲厚
垂直装甲 225mmKC n/A+17mm傾斜18度 → 30mmST90傾斜62度内傾 → 40mmST90
砲塔前盾 300mmKC n/A約20度内傾
バーベット 250mmKC n/A
水平装甲 20mmST90 → 100mmST90+15mm → 30mmST90 ≒ 128/116mm
砲塔天蓋 150mm水平~傾斜約20度
上部装甲帯→甲板 なし (上部装甲帯自体を持たない為)
上部装甲帯→傾斜部 なし
船体 平甲板型
装甲部位\艦砲 | 8インチ | 28cm | 41年式36cm | 14インチマーク7 | 15インチ | 16インチ | 46cm |
垂直装甲 | 5km以遠 | 15.5km以遠 | 19km以遠 | 21.5km以遠 | 23.5km以遠 | 27km以遠 | 31km以遠 |
砲塔前盾 | 3km以遠 | 19km以遠 | 26.5km以遠 | 34.5km以遠 | 安全距離なし | 安全距離なし | 安全距離なし |
バーベット | 7km以遠 (8km以遠) |
19km以遠 (21.5km以遠) |
23km以遠 (26km以遠) |
28km以遠 (29.5km以遠) |
安全距離なし |
安全距離なし |
40km以遠 (安全距離なし) |
水平装甲 | 貫通不能 | 31.5kmまで | 25kmまで | 24.5kmまで | 23.5kmまで | 23.5kmまで | 19kmまで |
砲塔天蓋 | 貫通不能 | 34km ~22kmまで |
28km ~14kmまで |
27km ~12kmまで |
27km ~安全距離なし |
27km ~安全距離なし |
25.5km ~安全距離なし |
垂直装甲(30度) | 1km以遠 | 11.5km以遠 | 15.5km以遠 | 16km以遠 | 18.5km以遠 | 23.5km以遠 | 29km以遠 |
※二次大戦期の案であるので表を掲載。
本級は後述するように最終的な設計がまとまる前に計画中止となった為、ここで使用している数値等は、確認できる中で最後に作成された1940年4月19日のスケッチZ-17他、なるべく新しい年代の案から抜粋した物となる。
仮に計画がさらに進んでいた場合、装甲配置・厚さ等は異なる物になっていた可能性もあるだろう。
艦の背景と概要
30年代後半、東南アジアへの拡張政策を進める日本の脅威が強まり、再び主力艦建造の必要性が高まった結果、39年より計画されたのが本級である。
計画においては詳しくは後述するが、オランダ海軍独力での能力の限界から、NEVESBUやIVSといった民間企業に加え、後者を通じたドイツ海軍の支援の元で設計。また造修設備の建設に使う物も含め、資材や装備も基本的にドイツより購入する予定であった。
41年に3隻を起工し、44年での完成を見込んでいたが、40年5月、そのドイツより侵攻を受けた事から、設計が固まる前に計画中止となった。
艦の性格としては以前の計画艦とは異なり、敵主力艦と正面から戦う純粋な戦艦というよりは、日本の条約型巡洋艦の撃破を目的とした、クルーザーキラー的な高速戦艦もしくは大型巡洋艦の一種となっている。
具体的に見ていくと、本級は排水量2万8千トンとこの時代の主力戦艦と比べるとやや小型だが、高速発揮の為に240mと長大な船体を持ち、そこに28cm主砲を3連装3基9門、また副兵装として12cm両用砲を連装4基8門搭載。
主砲は資料では50口径とあるが、購入先からしてシャルンホルスト級と同じドイツ製54.5口径砲を採用したとされる。ただし同級の砲とは砲弾重量が異なるなど、微妙な変更点も存在する。また副砲の12cm砲は、オランダでは既にボフォース式の12cm平射砲が存在していたが、先述した契約に加え、クルップ社と仕様の協議を行っている事から、新規に開発される物となるようだ。
なお対艦戦闘には関係のない物だが、対空兵装には戦時中に英海軍で好まれた、安定装置付きのヘイズメイヤー砲架を用いたボフォース40mm機関砲を持つのも特徴である。
巡洋艦狩りに重要な速力については、18万馬力の大出力で、戦場として想定される熱帯の海で33ノット(北海であれば34ノット)を予定している。
なお機関にはより一般的なヤーロウ式ボイラーとパーソンズ式タービンの組み合わせと、ドイツ式の物の二種類が検討されていた。後者は高性能だが信頼性には問題があり、特に駆逐艦などでは二次大戦時のドイツ艦艇の弱点となった部分でもある。実際オランダ側も配備先の極東で整備できるのかと、採用には慎重になっていたが、実際は計画終了時まで決まらないままであった。
装甲配置とその謎
防御面の中でも対弾防御については、基本的に自艦の28cm砲に耐えられる程度の物とされている。
その上で本級の装甲配置は計画の進行に伴い、非常に興味深い変遷(個人的にはこの時期の艦の中で一番と言って良い程の物)を辿っているが、この件は後述するとして、まずは最終形態として、判明している中で最も新しい形の物を解説していきたい。
船体形状は平甲板型で、重要区画上を通る甲板は基本的に上中下の三層。
まず垂直装甲は、重要区画内では中甲板の高さまでに225mmの主装甲帯(バッキングは17mm)が、18度の傾斜角で設けられる。それより上の乾舷は40mmと若干ながら装甲化。また前後部の艦首尾水線部には艦首30~15mm、艦尾60~30mmと、こちらも薄い装甲が設けられる。(艦首尾についてz-17等に記載がないので、39年12月~40年2月作成のスケッチD1bの物となる)
続いて水平装甲は、重要区画内では主装甲帯の上端に接続する中甲板が主な防御を担う甲板で、合計厚115mm(100mm+15mm)。またこの一層下の下甲板にも補助的な甲板となり、厚さ30mm。同甲板の外側は30mm厚のまま下側に6向かう傾斜部となり、主装甲帯の下端近くに接続する。艦首尾(同じくD1bより)は下甲板のみ装甲化され、厚さは艦首で30~15mm、艦尾は100mm(75mm+25mm)で傾斜部あり。また舵機械室上は水平部125mm(100mm+25mm)、傾斜部150mm(125mm+25mm)に増厚。
砲塔防御はかなり初期の案や最初の要求値まで遡る必要があるが、それらを参照すると主砲塔は前盾300mm、天蓋150mm、バーベット250mm。副砲塔は前盾、バーベット80mm、天蓋150~125mm。
それ以外には、重要区画横の水雷防御区画には4層の縦隔壁が設けられ、この内外側から3層目が厚さ40mmの水雷防御縦隔壁となる。
装甲材質は契約から全てドイツ製の装甲を購入したと考えられる。つまり同時期の独主力艦と同じく、垂直装甲はKC n/a、水平装甲等はWh(資料にはst90とあるが詳細不明)、バッキングなどはST52相当の鋼材となる。
配置の特徴を見ていくと、垂直装甲はほぼ重要区画間の主装甲帯のみとなり、それ以外の舷側上部や艦首尾は完全に非装甲ではないが、大部分が弾片防御程度と最低限の防御力に留まっている。また甲板の水平装甲も、主装甲帯の上端に接続する中甲板に装甲を集中する形である。
本級はこのように、重要区画を収めた「主装甲帯と中甲板で形成される装甲区画」以外はほぼ(艦尾の水平装甲のみ例外)弾片防御以下に留めた上で、同区画に装甲を集中させている。
つまり1913年戦艦案のような分散的な配置ではなく、この時代のトレンドである「集中防御」思想を取り入れた物と評価できる。
集中防御と同じ考え自体は装甲艦時代から存在していたが、速射砲やピクリン酸を用いた榴弾が普及した19世紀末から20世紀初めには、薄くとも広い装甲範囲を持つ方がそれらの脅威に対して有効として、分散的な配置が主流となっていた。
一方でこの時代では徹甲弾の進歩に伴い、必要な装甲厚の増加、(分散的な配置が持つ)多重防御の有効性減少に加え、砲戦距離の延伸に伴い水平装甲にも厚い物を設ける必要性が生じていた。
そんな環境ではたとえ装甲範囲を減じても、重要区画を守る限られた範囲に出来るだけ防御力を集中するのが(少なくとも戦艦同士の撃ち合いにおいては)最適であるとして、再び主力艦の配置に帰り咲いたという流れになる。
他に配置上の特徴としては、Z-17は装甲帯は外装式で下端よりバルジが突き出す形だが、その少し前(4月8日作成のスケッチZ-15)までは、主装甲帯が完全にバルジ内に隠れる内装式の傾斜装甲帯であった。
また集中防御とは言え、水平装甲は中甲板1層に装甲をすべて集中するのではなく、一段下に弾片防御程度の防御力を持つ亀甲状の甲板を設けている。(「装甲配置に関するメモ」で分類したところの「中層主要集中、下層補助型」)
さらに水雷防御区画は上述の縦隔壁で4区画に区切られるが、この内40mm縦隔壁の手前にある3区画目のみ燃料タンクなどの液層とし、その両側は空層という構成に。この時期の米英仏戦艦等も用いた液層防御が確認できる。
まとめると、集中防御、(一時期は内装式の)傾斜装甲帯、装甲甲板と一層下の弾片防御甲板を組み合わせた水平装甲、液層を用いた水雷防御、という4点が本級の配置の特徴となる。
いずれも他国の新戦艦にも取り入れられた新しい要素であり、全体的には時代に応じた洗練された配置と言えるだろう。
そして気が付いた方も居るかもしれないが、上で挙げた4点(内装式装甲帯を含めた場合)は仏ダンケルク級の配置と完全に一致する。
ダンケルクと言えば、本級と同じクルーザーキラー的な中型高速戦艦で、その中でも初期に登場した艦である。よって同級を配置を手本にした結果似たのだと言いたくなるが、現時点で判明している部分では、そう簡単に結論付けるにはあまりにも謎が多い。
例えば計画時のオランダ海軍が参考の為ダンケルク級の情報を求めていた事は事実だが、それを入手出来たかは確認出来ない。そして実際の設計で大きな影響を与えたのはドイツ海軍だが、二次大戦時でも独特な装甲配置を維持していた同海軍の影響下で、このような配置を採用したという結果も謎である。
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計画時の装甲配置
ここでは表の解説に入る前に、計画時の装甲配置の変遷をまとめた上で上記の謎について考えてみたい(このページ公開してから5年ぐらい放置していたがようやく)。
なお最初に明記しておくと、資料不足などから明確な結論は不明のままで、推測以上の物は現時点では存在しない。興味がないのであれば読み飛ばして貰えればと思う。
まず前提として、艦自体は一貫して28cm砲搭載33ノットの高速戦艦として計画されており、対弾防御の要求も対28cm防御と変わらない。
対象は資料の関係で変遷が分かる重要区画内の船体装甲を中心に記述。船体構造はすべて上記の案と同じく平甲板型、甲板は上中下の三層である。
最初に確認出来るのは39年7月、要求内容を元に海軍の設計部門が作成した「基礎案」である。
まず垂直装甲は傾斜を持たず、下甲板付近までに250mmの主装甲帯を持ち、その上には中甲板まで150mm、上甲板までに100mmの上部装甲帯が続き、乾舷全体を装甲で覆っている。またこの前後部の艦首尾には100mmの装甲帯を設ける。
水平装甲は主装甲帯の上端近くに接続する下甲板を主な装甲甲板として、これが125mm厚(バッキングとの合計厚と思われる)。これ以外にも上甲板が15mm厚を有する。
また水雷防御区画は、30mmの縦隔壁2層を設けて2つに区切られる。
配置を見ていくと、まずこの時点で8インチ防御は実現していると思われる。むしろ後の案と違い乾舷全体に上部装甲帯を持つ分、8インチ砲に対して防御範囲で優れる点も。また(数字の上では)厚い水平装甲もこの時点で確認できる。
一方で装甲配置自体は後の案とは大きく異なり、20~30年前の戦艦、日本の河内型などに似た配置をベースに、水平装甲と水雷防御を強化した物と言うべき物である。
「大落角の砲弾や魚雷に対応しなくてはならない」と言った事自体は認識出来ているが、それを形にする知識が追い付いてない印象を受ける物で、実際にジェーン年鑑しか参考出来る物が無かった為、古い情報に基づいて設計された結果誕生した物とされる。
なお肝心の防御力的には、対8インチとしてはむしろ良い部分もあると上では述べたが、同規模の艦が持つ大口径主砲や航空爆弾に対する防御としては、有効な防御範囲が狭く、効率的な配置とは言い難い物である。
続いて確認出来るのが、独力での設計能力不足が露呈したオランダ海軍に対して、IVSを通じて支援に乗り出したドイツ海軍の案で、39年8月より提供されている。
基礎案からの変更点を述べると、垂直装甲は主装甲帯が厚さ225mmで高さは下甲板まで、それより上の範囲は中甲板までに60mm、上甲板までに30mmと大きく減厚。また艦首尾の装甲帯は艦首30mm、艦尾60mmに。
水平装甲は下甲板の外側で傾斜部となって装甲帯の下端付近に接続する亀甲甲板となり、厚さは水平部100mm、傾斜部125mm。また上甲板が30mmとやや増厚している。
加えてオプションとして、主装甲帯は傾斜なしと15度程度の傾斜装甲となる物が、そして水雷防御はドイツ艦と同じ縦隔壁2層を設けた2区画の物と、もう1層縦隔壁を追加した3区画の物という、計4種類が確認できる。(また傾斜装甲採用案では下端からバルジが突き出す形に)
つまり基礎案の舷側上部と艦首尾の垂直装甲を弾片防御程度にした代わりに、当時のドイツ艦にも見られる垂直装甲と甲板傾斜部による多重防御を導入。また水平装甲は下甲板が大部分で減厚するも、上甲板が増厚し信管作動など補助的な防御効果を獲得。加えて傾斜装甲や水雷防御強化のオプションがあるという物である。
また同国のシャルンホルスト級と比較すると、同級で中甲板まであった主装甲帯の高さと厚さを(あと上甲板の厚さも)減らし、代わりに下甲板を強化したような配置とも言える。なお傾斜装甲帯はドイツ艦ではライプツィヒ級以降の巡洋艦、装甲艦では採用例が確認できる(軽巡・重巡編その2を参照)が、戦艦と言える規模の艦では無い事から、この案は注目に値する。
防御的には強力な多重防御を得た事から、大口径砲への垂直防御は大きく強化されている。一方で舷側上部の60mm部分を貫通した砲弾が、125mmの下甲板傾斜部にほぼ直接命中してしまう懸念がある他、8インチに対する防御範囲の減少もデメリットだろう。
また全体的な配置は、主装甲帯の225mm厚と傾斜装甲の導入、上部舷側と艦首尾垂直装甲の弾片防御化と言った部分が後の案にも受け継がれる点だが、未だに装甲区画は下甲板までの高さに。後の案とは水平装甲の配置と装甲区画の範囲で大きな違いが確認できる。
ここから配置が大きく変化したのが、39年10月以降NEVESBUやIVSの協力の元、オランダ海軍が作成した案である。
ここでは225mm主装甲帯が中甲板までの高さに拡大した上に、15度の傾斜装甲で内装式に(上部舷側は30mm)。水平装甲は中甲板が100mm(75+25)で主装甲帯の上端に接続し、また下甲板30mmは亀甲甲板となる。
また水雷防御は4層の縦隔壁を設け、最後の縦隔壁のみ装甲化され40mm厚。内部の区画は中央の2区画が液層で、その両側を空層で挟む形に。
と言う風に、装甲帯が内装式で傾斜角度が異なる点、水雷防御の構成も微妙に異なるが、ほぼ最終案に繋がる配置で、先述したようにダンケルク級に酷似した配置である。
一応前案からの変化としては、ドイツ案の傾斜装甲を持つものをベースに、主装甲帯の高さを中甲板まで拡大し、またバルジの範囲も拡大して装甲帯を内装。水平装甲は下甲板を弾片防御程度に減じて、新たに一層上で主装甲帯上端の中甲板を強化したという形になる。
また防御的な部分はほぼ最終案と同じなので 表の解説で後述する。
この時点で装甲関連はほぼ最終案(機関などは未だ詳細は未定)とされていたが、40年に入ると装甲帯を外装式にすべきと言う意見が出たのと、イタリア海軍での見学を許されたので、そのフィードバックを待って一端保留に。
その後見学の際に水中防御や中央隔壁の是非などで指摘された点を検討した後、最初に解説した案の配置に至る、というのが判明している範囲での計画の流れである。
まとめと考察
以上のように、本案の計画では装甲配置の急激すぎる進歩が確認できる。最初の河内もどきの基礎案から、僅か数か月の間で防御思想が20~30年程一気に進歩したと言ってしまって良いだろう。
そして本題であるダンケルク級との類似だが、果たしてこれは直接同級の情報を得たからなのか、収斂進化的に一致した結果なのだろうか。
5年も放置しておいてなんだが、最初に述べた通り現時点では確実な結論はないというのが結論である。
実を言うと、本級の資料は元々ドイツ側で用意された物であったり、 ドイツ軍による占領後に押収され行方知れずになった物が多数存在している。そういった物が発掘されれば、また状況は変わるのではないかと思われる。
少なくとも確実な事としては、オランダ海軍はジェーン年鑑に頼っていた頃とは別の、より新しい情報を得た結果、最終的にこの進歩した配置を生み出す事に成功したという事である。
この「新しい情報」をもたらした経路については、今後の調査が期待される。
ここから考察という名の妄想になっていくが、仮にダンケルク級関係なしに収斂進化的に一致したと仮定して、その場合に装甲配置の元になった可能性のある構造を、計画案やドイツ艦艇から(半ばこじつけで)探してみたい。
対象となるのは上でまとめた本級の4つの特徴で、改めて挙げると以下のようになる。
1. 集中防御思想(垂直装甲の内、上部舷側と艦首尾を弾片防御以下に留め、水平装甲をなるべく一層に集中)
2. (一時期内装式の)傾斜装甲帯
3. 「中層主要集中、下層補助型」の水平装甲
4. 液層を用いた水雷防御
まず確実な部分から行くと、1と2の一部である、上部舷側と艦首尾が弾片防御程度の厚さである点、舷側装甲が傾斜装甲になる点は、上で見て来たようにドイツ提供案で最初に確認できる。同案由来の可能性が高いだろう。
また上部舷側と艦首尾の防御はドイツ艦ではシャルンホルスト級の配置に近く(同級も上部舷側は弾片防御程度。艦首尾の垂直装甲は小口径弾もしくは弾片防御で、水平装甲は舵機のある艦尾のみ重装甲)、傾斜装甲は先述したように巡洋艦で見られる要素である。
続いて2の装甲帯がバルジ内に内装されるという点は、ドイツ提供案にはないが、ドイツ海軍ではヒッパー級がこの形を採用している。
また舷側を傾斜装甲とすると船体形状は下すぼみの台形となり、通常の配置よりも復原性に悪影響を与える。そのデメリットを理解しているのであれば、下すぼみの部分にバルジを設けて船体形状を整え、復原性を改善するという手段を独自に考え着く可能性も十分あるだろう。
そして4の水雷防御での液層の利用という点は、ドイツ艦の2区画式の時点で、外側が空層、内側が液層という構成なので、利用自体はしている事になる。
ただ本級のような4区画かつ両側を空層で挟む形は、この時点でのドイツ艦には見られなかったはずである。
想像出来る事として、本級の液層は3区画目にあり、その背後の隔壁が装甲化されている。液層の背後に空層を挟まず直接装甲隔壁を設ける配置というのは、この時期では以外と少数派で、ドイツ主力艦や日本の翔鶴型と同じ形になる。
(この点はエボナイトムースの欠如と共にダンケルク級と本級の相違点の一つでもある)
この場合、間に空層を挟む物と比べて装甲隔壁に伝わる爆圧は大きい物になるので、被雷時には背後に漏水や燃料漏れが生じる可能性が高い。この対策として、元のドイツ艦の配置をベースに装甲隔壁の背後にもう一層空層を追加して、本級の配置となったと考える事が出来なくもない。
ただし注意すべき点として、10月以降に作成された案の水雷防御にも注目しなくてはならない。
同案の水雷防御は上でも見たように4層の縦隔壁を持つが、装甲化された物は4層目で、液層の直接背後ではなく空層を挟む形なのである。これは単純にドイツ式+背後の空層で最終案に至ったのではなく、別の形も検討されていた証である。
ここで具体名は挙げられないのだが、たしか戦前の専門誌には近代戦艦として液層防御の元祖に当たるテネシー級の水雷防御が普通に解説されていた記憶がある。水雷防御については、このようなドイツ海軍等とは別の情報源を新たに得ていたのでは、そんな可能性もあるのではないだろうか。さすがにここまでくると妄想が過ぎるが。
そして最後に3の水平装甲の構成だが、これは関連付け出来る構造が計画案やドイツ艦に全く存在しないのが現状である。(それこそ上みたいにテネシー級の資料があったとかでもない限り)
一応流れ的には、重要区画の容積もしくは予備浮力の保持と言った点から、ドイツ案までよりも装甲区画を高い位置まで上げる必要が生じて・・・みたいなそれらしい理由を考える事は出来るが、言うまでもなく完全に妄想である。
以上こじつけを含めると、意外とドイツ艦やドイツ海軍提供案の配置を元にしたとしても、本級の特徴に近づく事は可能と言う事になった。ただ水平装甲に関しては本気で不明なので、これも新たな資料の発掘に期待したい。
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表の結果と解説
凄まじく今更になったが、ここからは冒頭の表の解説に移っていきたい。(スクロールが大変だと自分でも思う)
一応だが装甲部位や諸々の計算法は「補足のページ」参照。
まず舷側の垂直装甲は225mmの傾斜装甲帯を設け、背後には下甲板傾斜部や縦隔壁が弾片防御として加わる形になる。
厚さはクルーザーキラー的な艦としては平均的なものだが、大きい傾斜角と装甲の質から対弾性能は上位。近距離での8インチだけでなく、自艦主砲レベルにも十分対応可能である。
砲塔の垂直装甲を見ていくと、前盾は300mmと艦の規模に比して薄くはないが、戦艦主砲が相手ではやや不足する面も。なお後述する天蓋傾斜部の存在により、砲室のサイズに対して前盾の被弾面積自体は小さ目である。
バーベットの防御力も同程度。
続いて水平装甲は、中甲板が115mmの装甲甲板、下甲板が30mm弾片防御甲板となる。
使用されるドイツ製のwh鋼は、大口径砲に対する水平装甲としてはあまり優れた物ではないとされるが、厚さはあるので、戦艦主砲相手でも一定の水準の安全距離を確保する結果に。
なお20mmの上甲板ではなく、上部舷側の外板を抜いて中甲板に命中するルートも考えられるが、外板は40mmと結構あるので、安全距離はそこまで大きく変化しないと思われる。
砲塔天蓋は150mmと、垂直部分と比べて厚く重視されていた事が伺える。ただし形状を見ると前半分はかなり大きく傾斜しており、水平部よりも撃角が深くなる部分になる。
この部分も同じ厚さとすると、これでも8インチ防御としては十分だが、それ以上の艦砲に対しては本級の装甲部位の中でも大きな弱点と言える。
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表に載らない部分
他ページと同じくこの部分も触れておくと、まず上部装甲帯云々に関しては、本級の配置では発生せず。
続いて煙路防御としては、厚さ225mmのグレーチングを開口部に設けている。これは当時のドイツ艦も普通に蜂の巣甲板を使っていた事から、本級も同じ物を採用した可能性が高い。
水中弾防御は特に確認できず。装甲帯は水線下のある程度の深さまであるが、水線付近への命中弾や艦のローリングに対応する程度の範囲。
それよりも下に命中した砲弾については、水雷防御区画内で炸裂した場合ならともかく、勢いを保ったままの水中弾に対応する防御力は持たないだろう。
最後に浮力保持云々の話では、まず重要区画内では本級の装甲甲板が高い位置にあるので、重要区画上で炸裂した砲弾や爆弾での浸水や予備浮力の喪失を限定する事が可能に。(計画時点での基礎案やドイツ案ではそう言った被害が発生しかなねい)
一方で艦首尾の防御は艦尾以外は垂直水平共に弾片防御程度で、直撃弾に対してはある程度の浮力喪失は覚悟しなければならないだろう。
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まとめと比較
最後にまとめると、本級は洗練された装甲配置に加え、主要部位の単純な防御力もクルーザーキラー的な艦の中ではかなり優秀な部類に入る。
唯一砲塔天蓋の傾斜部のみドイツ艦と同じく弱点になるか、8インチ防御としては十分すぎる物で、同系統の艦とも十分戦える物だろう。
他の面を見ていくと、攻撃面では主砲の元となる独54.5口径28cm砲は実績十分な優秀砲だが、同規模の艦を相手にするにはややパンチ力に欠ける面も。
なお指揮装置はドイツ製ではなく自国のヘイズメイヤー社の物(元をたどるとどちらもシーメンス式)だが、二大戦期の物として特に劣る物ではないと思われる。
そして速力は実際未知数な部分もあるが、計画値を実現出来れば高速戦艦として通常の主力艦を引き離し、巡洋艦にも対応の出来る申し分のない物である。
個艦の戦闘力では、通常の巡洋艦やドイッチュラント級を圧倒出来るのは間違いないとして、就役した場合は他の高速戦艦、特に日本の金剛型や超甲巡との戦闘が想定される。
両級と比較して本級は防御面で上回るが、主砲の威力では(超甲巡の主砲は詳細不明だが、既存の14インチ砲に匹敵し28cm砲を上回ると想定される)劣り、ちょうどお互いの攻防力が釣り合う感じになる。
となると砲撃精度や戦術面が左右する部分が大きくなるだろうが、基本的には十分両級と戦える艦であるのは間違いない。
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南米諸国
はじめに
続いては一次大戦前の建艦競争で弩級艦を保有した南米諸国。
今回も装甲艦時代の主力艦から見ていくと、19世紀前半に独立した南米諸国の中でも、チンチャ諸島戦争、三国同盟戦争などが勃発した60年代半ばより装甲艦を保有する国が登場している。
始めにブラジル並びにペルー、やや遅れてチリとアルゼンチンが加わった四か国がこれに該当する。(他にもパラグアイも装甲艦を発注するが経済的な問題からブラジルが獲得)
これらの艦は英仏もしくは国内での建造、米国からの中古艦購入などを経て就役し、艦の性格としては南北戦争で見られた沿岸・河川用のモニターやケースメイト艦、そして排水量2千トン以下の小型の中央砲郭艦、砲塔艦が中心である。
以降の代表的な艦を紹介しておくと、まず初期に例外的な規模の艦として登場したのが、66年に竣工するペルーのインディペンデンシアである。
同艦は英国製、排水量3500tの舷側砲列艦で、兵装は同国で主流だった前装式ライフル砲。7インチ砲2門、70ポンド(口径は6.4インチと考えるのが普通だが、5.75インチとする資料も)砲12門などを搭載。装甲は水線部と砲甲板を守る範囲に、初期の装甲艦に良く見られる4.5インチ厚の錬鉄からなる垂直装甲を設けている。
(南米諸国はその成り立ちからどこもインディペンデンシアって艦を持ってる気が。なおこの艦は1879年の方の太平洋戦争で、格下の敵艦を追撃中に座礁してあっさり廃艦になっている)
これに続くのが74~5年に竣工するチリ海軍のアルミランテ・コクレーン級の2隻で、本級も英国で建造された3千トン台の艦だが、こちらは中央砲郭艦。6門の主砲には大型の9インチ砲を搭載し、衝角戦に必要な前方射界を持つ点でも優れている。また装甲は水線部に最大9インチ、砲廓8インチと明らかに本級の方が重装甲である。
同級は太平洋戦争のアンガモスの海戦にて、ペルー海軍に残された主力装甲艦である砲塔艦ワスカルを降伏に追い込むなど活躍した。(なお鹵獲されたワスカルはその後チリ海軍に編入され、現在も記念艦としてその姿を留めている)
83年になるとアルゼンチンとブラジルもより大型の装甲艦を英国より獲得。
まずアルゼンチンのアルミランテ・ブラウンは排水量4200tの同じく中央砲廓艦だが、鋼製の船体を持ち、8門が搭載された26口径8インチ砲は新式の後装砲を採用。
また装甲をみると、厚さは水線部が9~7.5インチ、砲廓8インチと大差なく、むしろ艦首尾の水線装甲が廃されて装甲範囲が減少しているが、垂直装甲の材質として新たに複合装甲を採用。これを考慮すれば装甲範囲の防御力は大きく上回る物に。また本級では水平装甲が導入され、砲廓の上端に当たる甲板に5/8インチ(16mm)、垂直装甲の無い艦首尾では水線付近の甲板に1.5インチの装甲を有している。
一方ブラジルのリアチュエロはさらにこれを上回る排水量5千トン越えの砲塔艦で、主砲もさらに大型のホイットワース式31.5口径9.2インチ後装砲4門を、連装砲塔2基を梯形配置にして搭載(ただし梯形配置の代表であるインフレキシブルや、ドゥイリオ、定遠などと違い、砲塔は前後部に離れて配置)。
装甲は垂直装甲に同じく複合装甲を採用しつつ、厚さは水線部に11.5(292mm)~10インチ、 砲塔とその基部に10インチなど、こちらも他艦を上回る。なお本艦は砲塔同士が離れている事に加え、艦首尾の半分程を垂直装甲の範囲に加えており、インフレキシブル級のような極端な装甲区画の短縮は行わなかった事が確認できる(その分装甲区画の長さで勝るが、逆に水線上の高さは犠牲に)。また本艦も水平装甲を持ち、2インチが水線装甲の上端に、3インチが垂直装甲の無い艦首尾に施された。
このような攻防の優位に加え、本艦は速力も既存艦に対して3ノット程優勢であった。87年に竣工する準同型艦のアキダバンも含めた本級は、当時の新大陸で最強の戦闘艦であり、これに危機感を覚えた米国が海軍強化を始める大きな切っ掛けになったとされている。(実際最初期の米戦艦であるメインは同艦の拡大版とも言われる)
実はブラジルは以前にも英国より排水量9千トンもの砲塔艦(これも艦名はインディペンデンシアが予定されていた)を獲得する予定だったが、こちらは実現せず。
この艦は日本が購入する計画もあったが、最終的にネプチューンとして英海軍に編入された。
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続いて80年代後半より、チリとアルゼンチンの間で建艦競争が勃発する。元々領土問題等で敵対的だった両国だが、海軍戦力ではほぼ互角(実戦経験では太平洋戦争を経験したチリが勝る)と考えられていた。
それが1887年にはチリがフランス製装甲艦カピタン・プラットの獲得を含む海軍拡張を計画する事で大きくバランスが崩れる事になる。
93年に竣工する同艦は排水量約6,900t、主砲は35口径24cm砲4門を防盾付きのバーベット内に単装で収め、同時期のフランス艦の特徴である菱形配置で搭載。他には120mm副砲を連装砲塔で4基搭載。
装甲は軟鋼製で、まず水線部には高さの無い主装甲帯を設け、厚さは船体中央300mm、艦首尾150~120mm。また船体中央の2・3番主砲や煙突をカバーする範囲に限り、80mmと薄い上部装甲帯が上甲板までを覆っている。
水平装甲は上部装甲帯を設けた範囲を除き主装甲帯の上端に設けられ、厚さ50mm。主砲は270mmのバーベットが周囲を覆い、これに50mm防盾が加わる。
本艦は一隻のみだが性能はリアチュエロを上回ると思われ、アルゼンチンの装甲艦に対しては言うまでもない。
またこの計画では同艦に加え、以前より整備を行っていた防護巡洋艦の戦力も強化している。
アルゼンチンはチリのこの動きに対して、まず英国製のインディペンデンシア級海防戦艦2隻に加え、防護巡洋艦数隻の整備で対抗。同級は2300t台の小型艦で、クルップ式の35口径24cm砲を単装砲塔2基2門搭載。装甲は水線部に8インチ、水平装甲2インチ、主砲前盾5インチ、バーベット8インチなど。
その後両国ともに立て続けに防護巡洋艦を整備し、やがてより強力な装甲巡洋艦の整備に発展する。
チリはエスメラルダ(日本へ売却されて和泉となった世界初の防護巡の名を受け継いだ)とオヒギンスの2隻を獲得。
両級は英アームストロング社の設計建造で、8インチ並びに6インチ速射砲(口径は40口径)を主兵装とするなど、特にオヒギンスは後の六六艦隊の日本装甲巡へと受け継がれる要素が強い艦である。
ただし装甲配置には違いもあり、舷側の垂直装甲は重要区画間水線部の主装甲帯のみ(厚さはエスメラルダ6インチ、オヒギンス7インチで共にハーヴェイ鋼)で、舷側上部は副砲を収めた個別のケースメイトを除いて非装甲。また艦首尾水線部の補助装甲も持たないなど、装甲範囲が狭い点が挙げられる。
一方で本級の時点で水平装甲は傾斜部が装甲帯の下端に接続する亀甲甲板となっており、この構造と装甲材質の進歩も含めれば、装甲部位は既存の海防戦艦にも負けない防御力があったと思われる。
対するアルゼンチンが獲得したのはイタリアのガリバルディ級。40口径10インチもしくは45口径8インチ主砲に6インチ副砲を組み合わせた重武装に、上甲板や艦首尾にも補助装甲帯を設けた広い装甲範囲を持つ本級は、準主力として艦隊戦に参加出来る優秀な艦であるが、それをなんと6隻もの購入を計画、チリに数的な優位を持つ事に。
後れを取ったチリはここで戦艦獲得へと動き、排水量1万2千トンのコンスティトゥシオン級2隻を英国に発注する。
本級は45口径10インチ砲という小型の主砲を連装2基4門搭載する一方で、副砲は50口径7.5インチ砲を単装で14門と通常の前弩級艦よりも強力。装甲は垂直装甲にクルップ鋼を採用した点、重要区画間の主装甲帯と上部装甲帯が共に7インチと同厚な点が特徴である。また艦首尾には末端で途切れるが、水線部の大部分に3インチの補助装甲帯を有している。
水平装甲は重要区画間で下甲板1.5インチ、艦首尾では3インチに。主砲塔の前盾、バーベットは10インチ。
艦のサイズ並びに攻防力では当時の戦艦としては控えめな部分が一部存在するが、巡洋艦相手なら圧倒できる物であり、加えて19ノットという高速力を発揮可能である。本級はこれを以て数で勝る敵装甲巡に対応するという、当時における巡洋戦艦・高速戦艦的な思想の艦である。
これに対してアルゼンチンはイタリアより12インチ砲搭載の純粋な戦艦購入を計画。ついに建艦競争の対象が戦艦に発展するかと思われたが、この時点で建艦競争は両国の経済に大きな負担を掛けており、1902年には英国の仲介で一部艦艇の放棄などを盛り込んだ五月協定が結ばれた。
結果としてアルゼンチンのガリバルディ級の内2隻は日本が購入、日露戦争で活躍する春日・日進に。
チリのコンスティトゥシオン級についても日本が購入する話があったが実現せず、逆にロシアが獲得する恐れがあったので英国が購入。スウィフトシュア級として就役している。
なお同級の設計はエドワード・リードであり、英海軍を辞した後も手がけた艦が英海軍の元で就役するという例が度々あった彼にとって、本級がその最後の例となる。
最終的に
両国の主な戦力は、チリが7千トン弱の海防戦艦1隻、7千トン台の装甲巡2隻、アルゼンチンは7千トン弱の装甲巡4隻と、ある程度バランスが取れた状態に。
こうして一旦は落ち着いたかに見えた南米海軍だが、1904年よりブラジルが海軍拡張を計画した事で事態は急変する。
1889年の帝政崩壊とその後の艦隊の反乱をきっかけに低迷期に入り、仏製海防戦艦マーシャルデオドロ級(排水量3千トン、9.2インチ砲2門)2隻の購入や防護巡の整備こそ行えど、それ以上へは進まなかった同国だが、未だに列強の間でも整備の進んでいなかった弩級戦艦をいち早く獲得。再び南米の海軍戦力をリードする存在に躍り出た。
これを受けてアルゼンチンとチリの両国も軍備拡張を再開。競って弩級艦の整備を行う事になる。
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ミナス・ジェライス級
1907年起工 1910~53年就役
161.5m 19,000t(常) 45口径12インチ砲 連装6基12門 21ノット
装甲厚
垂直装甲 229mmKC → ?mm 傾斜?度内傾
砲塔前盾 305mmKC 傾斜約 ?度内傾
バーベット(露出部) 229mmKC
バーベット(艦内部) 229mmKC→ ?mm
水平装甲 38mmHT → 25mmHT ≒ 52mmHT
砲塔天蓋 51~76mmKNC
上部装甲帯→甲板 なし
上部装甲帯→傾斜部 なし
上記の拡張計画の一環として、ブラジルは英国より戦艦3隻の獲得を計画。この中でも3隻目は数奇な運命を辿る事になるが、まず最初の2隻として完成したのがミナス・ジェライス級である。
設計と建造はアームストロング並びにヴィッカース社が(この時期の英企業の常として秘密裏に協力しつつ)参加。当初はチリが発注したコンスティトゥシオン級をベースに、10インチ砲12門を亀甲配置にした艦が計画されていた。
同海軍が比較的早期から単一巨砲艦(弩級戦艦)に興味を持っていた事が伺える。
しかし1906年にドレッドノートが竣工したのを受け、12インチ砲の採用など設計を改めたアームストロング439A案が新たに作成され、これが最終案となる。
本級は日仏伊といった国の弩級艦よりも早い1910年に完成、これによりブラジルは英独米に次ぐ四番目の弩級艦保有国に成り上がった。
艦の特徴を見ていくと、まず弩級艦の証として主兵装は45口径12インチ砲に統一され、これを連装砲で6基12門搭載。
特徴として1・2並びに5・6番砲塔では同時期の英国戦艦よりも早く主砲の背負い配置を導入している。主砲の背負い配置を最初に採用したのは米サウスカロライナ級だが、完成した年代で言うと本級もほぼ同時。
残る2基は船体中央部で梯形配置を取る一方、上構で遮られて反対舷への射界は無し。よって片舷門数は10門に減少するが、それでも8門のドレッドノートやサウスカロライナを上回る指向門数である。
この他には対水雷艇用の速射砲とは別に副砲を搭載するが、サイズは50口径4.7インチ砲とやや小さめに。これを中甲板上の砲郭に7門ずつ14門、前後艦橋側面の上構に2門ずつ8門の計22門搭載している。
また最大速力は弩級艦らしく21ノットだがタービンではなくレシプロ機関を採用。
装甲配置を見ていくと、船体は平甲板型、重要区画上を通る甲板は基本的に上中下の三層。
まず垂直装甲は、2から5番砲塔横の範囲のみで、上甲板までの高さを覆う装甲帯が最も厚く9インチ。この外側には1、6番砲塔横と艦首尾の一部の範囲に中甲板までの高さで6インチ、さらに外側は同じ高さで艦首は端部まで、艦尾は舵機室の範囲まで4インチと補助的な装甲帯を設ける。
水平装甲は重要区画内では上甲板1.5インチ、下甲板1インチの二層。後者は傾斜部が装甲帯の下端に接続する形と思われるが、具体的な形状や厚さは不明。艦首尾では中甲板2インチ、第一船倉甲板1インチの2層に。
主砲塔は前盾12インチ、天蓋2~3インチ、バーベット9インチ。副砲は砲郭砲が9インチの装甲帯、艦橋横の物は非装甲。
装甲材質は同時期の英戦艦と同じ物、垂直装甲全般がKC、甲板の水平装甲などがHT、砲塔天蓋がKNCと思われる。
特徴として垂直装甲は最厚部で9インチと弩級艦としてはやや薄いが、舷側上部にも水線部と同じ厚さの装甲帯を設け、主装甲帯のみで乾舷全体を覆っている。
当時の装甲配置なら主装甲帯の上に薄い上部装甲帯を設けるのが基本であり、また米ネヴァダ級以降復活する主装甲帯のみを持つ配置に対しても、乾舷全体を覆うという違いがある事から、近代戦艦では非常に珍しい物と言える。
これは先述したコンスティトゥシオン級の垂直装甲がちょうど同じ形となり、改設計前から引き継がれた要素と考えられる。
当時の砲弾性能を考えると、本級は中小口径砲だけななく、大口径砲に対しても舷側の高い位置まで防御範囲を確保した事になるだろう。一方で弾薬庫横の一部は6インチに減厚しているのは、防御的にやや不安な部分となる。
それ以外の配置を見ると艦首尾の補助装甲帯、二層式の水平装甲など、基本的に各国の弩級艦に準じた物である。
装甲範囲とは別に主要部位の防御力のみ抜き出せば、(砲塔前盾を除いて)英ライオン級などの英巡戦の方が近いが、これでも弩級艦時代の12インチ砲に対してそこまで防御力が不足する事はないと思われる。
ただユトランド海戦でもあったように、比較的薄いバーベットであったり、一層式で薄い砲塔天蓋を抜かれての誘爆が最も危険視されるだろう。
火力面では砲弾性能が各国ともに低いので貫通力は置いておくとして、10門の片舷門数は初期の弩級艦では上位であり、交互打ち方でも最大5門を発射可能と、有効な斉射門数を確保しやすい利点を有している。
一方で最大射程は仰角13度の17km、また指揮装置では方位盤等の搭載はかなり遅れている。(18年以降米国で射撃盤のみを先に搭載、31年ミナスジェライスのみ方位盤と大型測距儀を新設している)
以上のように登場時の本級は列強海軍の新鋭艦にもそこまで劣らず、十分に渡り合える優秀艦と言える。
もちろん数年後の超ド級戦艦時代には見劣りする物であるし、更に戦中から戦後の遠距離砲戦時代には攻防の面で対応できない事から、さすがに陳腐化していく事は否めない。
しかし重要なのは、これ程の艦がいち早く南米に登場した事である。仮想敵が持つ海防戦艦や装甲巡に対して直接戦闘力で大きく勝るのは言うまでもなく、速力の優位すら否定しかねないと、それこそ脅威以外の何者でもない。
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リヴァダヴィア級
1910年起工 1914~1957年就役
181.3m 28,000t(常) 50口径12インチ砲 連装6基12門 22.5ノット
装甲厚
垂直装甲(弾薬庫) 254mm → mm傾斜 度内傾
垂直装甲(船体中央部) 305mm → mm傾斜 度内傾
砲塔前盾 305mmKC 傾斜 度内傾
バーベット(露出部) 305mm
バーベット(艦内部) 203mm → mm
水平装甲 51mm?
砲塔天蓋 102mm
上部装甲帯→甲板 不明
上部装甲帯→傾斜部 不明
アルゼンチンは1907年より再び戦艦の獲得などを含む海軍増強の方針を固め、翌年より各国企業を対象にしたデザインコンペを開催。
参加した5か国15企業の案から米フォアリバー造船所の物が選ばれ、これがリヴァダヴィア級として建造された。
本級は排水量は2万8千トンとミナスジェライス級と比べてかなり大型化。
主砲は米国製50口径12インチ連装砲を前後部に背負い式で2基ずつ、船体中央に2基梯形の計12門搭載。こちらは中央部が上構で遮られないので、爆風を気にしなければ全門を指向可能と、ミナス・ジェライスを上回る。
副兵装も強力な物で、まず上甲板上の砲郭に50口径6インチ砲を6門ずつ12門搭載。これに加えて水雷艇防御用の砲が4インチと大型化し、艦首尾のケースメイトや砲塔天蓋に16門搭載。
機関には蒸気タービンが用いられ、最大速力は22.5ノットと当時の平均超え。ちなみに機関配置は缶室を前後の2グループに分け、その間に機械室を設けるという変則的な物である。
装甲配置については不明な部分がかなりあるが、まず船体形状は第5砲塔まで船首楼が続く長船首楼型で、重要区画上の甲板は基本的に船首楼上中下の4層。
垂直装甲は重要区画内で、下甲板までの高さの主装甲帯が最も厚く、船体中央が12インチ前後弾薬庫横が10インチ。この上には下甲板から上甲板までの高さに9~8インチの(おそらくテーパーした)上部装甲帯が、そして上甲板から船首楼甲板までは、6インチ副砲を防御する範囲で6インチ厚の上部装甲帯が設けられ、乾舷全体を防御。
重要区画外の前後部では艦首は中甲板の高さまでに、艦尾は下甲板の高さまでに6~4インチの装甲帯が設けられる。
水平装甲は(おそらく重要区画内で)51mmという数字が伝わっているが、位置や形状などの詳細は不明。
主砲塔は前盾バーベットともに12インチ、天蓋4インチ。副兵装は6インチが6インチの上部装甲帯、4インチはすべて非装甲。
材質は建造元から当時の米戦艦と同じとすると、垂直装甲は三種類のクラスA装甲が混在(詳細は「戦艦装甲の材質などの話」を参照)。
甲板の水平装甲は軟鋼とニッケル鋼もしくはSTSの貼り合わせ。砲塔天蓋は一枚板のクラスB装甲(STS)と推定される。
装甲配置的には、垂直装甲が高さの低い主装甲帯と厚めでテーパーする上部装甲帯の組み合わせとすると、サウスカロライナ級からニューヨーク級までの米戦艦に近い形と考える事が出来る。ただし前後の弾薬庫横で主装甲帯が減厚するのと、艦首尾の装甲帯が両端まで達している事は相違点である。
(米国戦艦編でも少し触れた通り、米海軍はネヴァダ級以前のこれらの艦の時点で、既に艦首装甲帯の大部分を廃している)
詳細不明の水平装甲もこの頃の米戦艦と同じだとすると、傾斜部を持たずに主装甲帯の上端に接続する下甲板に施されたと思われるが、上で挙げた相違点と同じく異なる配置の可能性も。
実を言うと76mm厚の傾斜部と同厚の水雷防御縦隔壁を持つという配置図が存在している。だが他の資料と矛盾する部分も多く、現時点での自分の知識では判断する事は出来ない。
以上のように不明な部分もある本級だが、基本的な部位は舷側上部(副砲防御)を除いて、ミナス・ジェライス級と同等かそれ以上の物である。
特に砲塔天蓋などの砲塔装甲で上回るのに加え、砲塔自体も米国仕様の構造と装薬を用いる事から、イギリス式の砲塔と比べて誘爆対策では有利だった点も考えられるのは重要だろう。
攻撃面では門数で上回る一方、この時期の米国製主砲は精度面で不安な部分も。また指揮装置は詳細が不明だが列強水準の物は竣工時に搭載されず、本級の場合は20年代半ばに同じく米国で改装を受けた際に一部更新したようだ。
登場時期的に列強の最新鋭艦相手にはさすがに劣った面もあるが、ミナス・ジェライス級に対しては排水量だけでなく性能でも上回る部分を多数持っている。南米の弩級艦競争に参加する上で十分な戦艦と言えるだろう。
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リオ・デ・ジャネイロ →スルタン・オスマン一世(土)→エジンコート(英)
1911年起工 1914~1919(22)年就役
204.7m 27,850t(常) 45口径12インチ砲 連装7基14門 22ノット
装甲厚
垂直装甲(一・七番砲塔) 152mmKC →38mmHT傾斜約55度内傾 →25mm
垂直装甲(その他) 229mmKC → 38mmHT傾斜約55度内傾 → 25mm
砲塔前盾 305mmKC 傾斜約 度内傾
バーベット(露出部) 229mmKC
バーベット(艦内部) 152mmKC→ 76mm
水平装甲 38mmHT→ 25mmHT ≒ 52mmHT
砲塔天蓋 76mmKNC
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 なし
先述した通り1904年の計画では3隻の戦艦を整備予定だったブラジルだが、経済上の都合でミナス・ジェライス級は2隻に留まっている。
その間に超弩級艦オライオン級の建造開始など戦艦のインフレは進み、さらにアルゼンチンもリヴァダヴィア級を計画。これらの情勢の変化に伴い新設計の艦として計画された3隻目が本艦である。
計画においては前級よりも優れた戦艦が必要とされ、当初はアームストロング社設計の3万トン台、14インチ砲12門艦(連装で前後に背負い配置、中央部に梯形配置)が予定されていた。
しかし、その後新たに任ぜられたブラジル海軍相は、14インチのような大口径の主砲は必要ないと主張(ドイツ海軍の影響によるところが大きい)。さらに補給面からも12インチ砲艦を希望し計画は白紙に。
これに対して英企業は12インチ並びに16インチ砲艦案(後者はさらに強力な艦を求めた別勢力を想定した物。一部案は9.4インチ砲という中間砲を持つのが特徴)を作成。最終的にアームストロング社の担当者で後に英海軍の造船局長を務める、ユースタス・テニスン・ダインコートよる12インチ砲14門という、他に例のない主兵装を持つ案が採用された。
艦の概要を見ていくと、まず排水量は2万8千トン弱まで大型化。
主砲は先述したように45口径12インチ砲で、これを連装砲塔で前部は2基を背負い配置、中央部は同じ高さに2基、後部は3基をピラミッド式で配置。片舷に全14門を指向可能と、近代戦艦の主砲としては最多となる。
副砲は6インチ砲に拡大し、上甲板上の砲郭に7門ずつ、前後艦橋横の上構内に1門ずつ、船首楼甲板上に露天で2門と計20門搭載。(個人的には後部艦橋周辺の副兵装が3インチ砲を含め地味にかっこいいと思う)
機関には蒸気タービンを採用し最大速力は22ノット。
装甲配置を見ていくと、船体は後部艦橋まで船首楼が続く長船首楼型、重要区画上を通る甲板は大部分で船首楼上中下の4層。
垂直装甲は重要区画間の中でも、前部艦橋から後部砲塔群の手前の範囲の主装甲帯が最も厚く、中甲板の高さまでに9インチ厚。残る前後部の弾薬庫横は同じ高さで6インチに減厚。これらの上には上甲板の高さまで6インチ、副砲砲廓の範囲のみさらに船首楼の高さまでに同厚の上部装甲帯が施される。
また外側の艦首尾では、艦首は中甲板まで、艦尾は下甲板と中甲板の間の高さまでに4インチの補助装甲帯を持つ。
水平装甲は重要区画内では船首楼もしくは上甲板と下甲板の二層式。前者は1.5インチ、後者は水平部1インチ傾斜部1.5インチ。 艦首尾も二層式で艦首は中甲板と第一船倉甲板、艦尾は下甲板と第一船倉甲板がそれぞれ1インチ厚。
主砲塔は前盾12インチ、天蓋2~3インチ、バーベット9インチ。副砲は上構内と露天砲の6門以外は6インチの装甲帯内に。
そのほかには重要区画内では1~1.5インチの水雷防御縦隔壁を持つ。(機関部横は英海軍接収後に追加か)
本級は装甲厚だけでなく配置や範囲についても、ライオン級などの英巡戦、特に副砲防御を持つタイガーに近い物と言える。(砲塔前盾と装甲帯が水線部全周を防御している点は除く)
そうなると列強の純戦艦と比較した場合劣る面は多いが、同じく砲塔誘爆が怖い点を除けば当時の12インチ砲にある程度対応した物と言える。
なお本級の主装甲帯が減厚する部分は、9インチ範囲の端部から1もしくは7番砲塔バーベットの先端までに艦内部に向かって斜めに伸びる横隔壁装甲の範囲と重なっており、かなりの確率で多重防御になる為減厚した物と思われる。
(ただし水線付近から主装甲帯に命中した後、下甲板の傾斜部や外縁部を破るようなルートの場合は多重防御にならず、防御力的には中央部より劣る部位となる)
攻撃面については一発の威力で見ると当然前級と同じ。また最新の指揮装置も未搭載である。英海軍接収後も関連する改装を受けたのは戦争後半で、ユトランド海戦に参加した英戦艦で方位盤を持たなかった2隻の内1隻として知られている。
以上のように、14インチ砲艦のままだった方が良いのは正直否定できないが、少なくとも前級よりも優れた艦をという目的を達している点は間違いないだろう。
他の南米戦艦と比較した場合、アルゼンチンのリヴァダビア級には防御面で、チリが獲得するアルミランテ・ラトーレ級には攻撃面で劣るという風に、両者とも難敵と予想される。一方で海軍全体で見れば3対2と数的優位をもたらす事になっていた戦力である。
尤も後にチリのラトーレ級が14インチ砲艦だと判明すると、双方を比較したブラジル海軍は再び方針を転換し、本艦を就役させずに売却することに。
(これに対してアームストロング社は12インチ連装砲を15インチ単装砲に換装する事を提案したらしいが、これはこれで凄い艦になっていただろう)
その後は後述するようにオスマン海軍に編入される予定だったが、大戦に伴い英国が接収。QE級6番艦の名前として使われる予定だったエジンコートの名前で就役させている。
戦後はブラジルに売却される計画もあったが失敗し、英海軍の戦艦としてワシントン条約で廃艦となった。
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アルミランテ・ラトーレ 一時期カナダ(英)
1911年起工 1915~1959年就役
201.5m 28,000t(常) 45口径14インチ砲 連装5基10門 22.75ノット
装甲厚
垂直装甲 229mmKC → 25mmHT傾斜50度 → 13mmHT
砲塔前盾 254mmKC 傾斜約度内傾
バーベット(露出部) 254mmKC
バーベット(艦内部) 114mmKC → 102mm
水平装甲 38mmHT → 25mmHT ≒ 52mmHT
砲塔天蓋 102mmKNC
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 あり
チリは以前にも英企業より戦艦を獲得する計画が存在したが、1906年のブラジルの海軍拡張以降も、同じく英企業を通じて弩級艦の獲得へ動いている。
当初はブラジルと同じく10インチ砲搭載の単一巨砲艦が提案されるも、この時点では財政的な問題により実行に移されず。その後ミナス・ジェライス級の情報から、1910年より始まる建艦計画ではより強力な艦が求められている。
その際には英企業だけではなくドイツ並びにアメリカもコンペに参加。最終的には関係の深かったアームストロング社の案が採用され、アルミランテ・ラトーレ級として建造される事になる。
本級は当時最新の英戦艦であるキングジョージ5世級が元となった面が多いが、同級と比べて防御力を犠牲に攻撃力と速力を強化した艦である。
まず排水量はKGV級よりも大型化し、上で紹介した2クラスと同程度の2万8千トン。
そして主砲は同級を始め英海軍で用いられた13.5インチ砲ではなく14インチ砲、それも金剛型の主砲よりもさらに重い719kgの砲弾を使用する物を採用。これを英艦と同じく連装で前後部に背負い配置2基ずつ、中心線上に1基の計5基10門搭載。
また副砲は50口径6インチ砲、配置はKGV級の4インチ砲に近いが独自の物。まず上甲板上の砲郭に4門ずつ、加えて一段上の船首楼上で前部艦橋横に設けられた砲郭に2門ずつ、最後に上甲板上で後部艦橋横の砲郭に2門ずつの計16門。
他には速力は計画時値こそ22.75ノットとやや速めな程度だったが、英海軍接収後の公試時には予備用ボイラーを併用した際に24.3ノットという快速を記録している。
装甲配置として、まず船体は船首楼が第三砲塔前の煙突で途切れる短船首楼型。重要区画上の甲板は基本的に前部が船首楼上中下の4層、後部は上中下の3層。ただし前後の艦橋周辺には先述した砲郭を兼ねる艦橋甲板が1層分加わる。
垂直装甲は重要区画間で、下甲板よりやや上の高さまでの主装甲帯が最も厚く9インチ。この上には中甲板の高さまで7インチ、上甲板までに4.5インチと上部装甲帯が続き、さらに各副砲砲郭の防御として、船首楼や艦橋甲板の高さまでにも一部で6インチの装甲帯が設けられる。
加えて重要区画外では、艦首尾ともに全長の半分程で中甲板の高さまでに補助装甲帯を持ち、厚さは艦首6~4インチ艦尾4インチ。それより外側は非装甲となる。
水平装甲は重要区画上では砲郭のある部分が複雑だが、基本的には船首楼もしくは上甲板、そして下甲板の2層式。厚さは前者が1~1.5インチ、後者が水平部傾斜部共に1インチ。
この外側の艦首尾では、艦首の第一船倉甲板が2インチ、艦尾は舵機械室の防御を担う亀甲状の下甲板が厚さ4インチ。また装甲帯のある範囲では艦首尾共に中甲板が加わり、ここは厚さ1.5インチ。
主砲塔は前盾10インチ、天蓋3~4インチ、バーベット10インチ。副砲は先述したように6インチの装甲帯内。この他には弾薬庫横のみに最大2インチの水中防御縦隔壁を持つ。
同時期の戦艦と比較すると特に船体の垂直装甲がやや薄く、その点は上で見たリオ・デ・ジャネイロにも似た物である。
ただし配置的には同級が英巡戦に似ていたのに対して、本級は配置もKGVなどの英戦艦を元にした物で、主装甲帯は前後の弾薬庫横で減厚しない代わりに高さがやや低い点が大きな違いとなる。
一方で英艦とも異なる点として、本艦の装甲帯は下から9インチ、7インチ、4.5インチ、6インチと、先述したように薄めな点に加え、副砲防御を担う最上部がその一段下よりも厚い。これは「水線部の主装甲帯が最も厚く、上部になるほど薄い装甲帯を設ける」という、当時一般的だった配置の原則に反する珍しい物である。
また副砲配置の違いから、本艦の方が一部上部装甲帯が高い位置にある点も違いだろう。
防御力的には本艦も当時の12インチ砲に対応する程度で、リオ・デ・ジャネイロと大差はないと思われる。ただし砲塔防御で若干上回るのは当時の環境では重要か。
そして攻撃面では南米唯一の14インチ砲艦という事で、他艦に対する優位は間違いないだろう。
当時はまだまだ不完全な砲弾性能から、実戦環境で厚い装甲や多重防御を破って重要区画を抜く事は期待できないと思われる。それでも致命傷に繋がる可能性のある砲塔装甲、特に天蓋を抜ける可能性は他艦主砲より高く、また舷側上部や艦首尾など、重要区画外だが船体を構成する区画への破壊効果も上である。
また威力面以外では10門艦である本艦は単純な斉射時の投射量にも優れ、リオ・デ・ジャネイロの3割増しと南米戦艦では最大。(そして英戦艦と比較しても、13.5インチ砲艦はもちろんQE級やR級など15インチ8門艦すら上回る。扶桑やペンシルヴァニアなど14インチ12門艦には劣るが)
指揮装置は他の南米戦艦と同じく本来は未搭載と思われる。英海軍接収後には改装を受けた状態で完成し、前部マスト上と司令塔上に方位盤を持ち、艦内には射撃盤を収めるという最新の組み合わせに。
以上のように本艦は、装甲が薄めのブラジル戦艦に対しては主砲の威力から優位。防御面で上のリヴァダビア級に対しても 主砲口径で上回る点から遠距離戦では優位を取れると思われるが、速力が大差ないのと。チリでそのまま就役した場合は指揮能力の限界もある事から、互角程度の戦力と思われる。
また南米初の超弩級艦という事で、実戦での戦闘力だけでなく平時の宣伝効果にも優れた艦であった。
実際に上でみたように、本級の情報を得たブラジルは14門艦を売却して新型艦の計画を行うはめになったわけで、その存在が他国から脅威に見られていた事は容易に想像できる。
ただし本級も大戦で英海軍が接収、一番艦は先述した改装などを経てカナダの名前で就役。また工事の進んでいなかった二番艦アルミランテ・コクレーンは、戦後に空母イーグルとして完成し英艦艇として第二次大戦を迎えている。
カナダはユトランド海戦にも参加するなど大戦を生き延びた上で、戦後再びチリに売却され就役。結局南米海軍の弩級艦競争の中でも最後に登場した艦に。
(同海戦ではトマス隊についていけなくもない速度なので、こちらに加わっていれば面白い事になっていたかも。ただ北上戦では後尾の艦が結構撃たれているので、同時にちょっと危険かもしれないが)
この時点での本艦は指揮装置の面で優位を持ち、また他の英戦艦と同じく弾薬庫上の水平装甲が1インチ強化されているはずなので、個艦では南米海軍で最も優れた艦の候補となるだろう。
ただし1隻のみという数的な不利も大きな物である。
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リアチュエロ級
計画のみ(起工前に計画中止)
201m 30,500t(常) 45口径15インチ砲 連装4基8門 22.5ノット
装甲厚
垂直装甲 343mmKC → 不明
砲塔前盾 不明
バーベット(露出部) 330mmKC
バーベット(艦内部) 不明
水平装甲 38mm → 25mm ≒ 52mm
砲塔天蓋 不明
上部装甲帯 → 甲板 あり
上部装甲帯 → 傾斜部 僅かにあり
リオ・デ・ジャネイロを売却したブラジルだが、3隻の戦艦を揃えるために新たな艦を再び英国に求めることに。
チリ戦艦への対抗を込めて、「可能な限り強力な戦艦」と言う要求にアームストロング並びにヴィッカース社は15インチ並びに16インチ砲艦を含む案を提出。
この中からアームストロング社781案が採用され、リアチュエロ級戦艦として建造される予定だった。
本案は常備排水量30,500tと竣工時のQE級を上回り、その他の性能も既存の南米戦艦とは一線を画す物と言える。
まず主砲は新設計の45口径15インチ砲を連装で4基8門、副砲は6インチ14門、4インチ10門。副砲配置は砲種の区別がつかないが、上甲板上の砲郭に9門ずつ、その上の船首楼上の砲郭に3門ずつ。
さらに速力は22.5ノットを発揮する。
装甲配置も一部不明だが解説していくと、船体形状は第三砲塔まで船首楼が続く長船首楼型。重要区画上の甲板は基本的に船首楼上中下の4層だが、二番砲塔から後部艦橋までに存在する中央楼が加わる部分も多い。
垂直装甲は重要区画内で下甲板と中甲板の間程度の高さに主装甲帯は13.5インチ。この上には上甲板の高さまでに9インチ、さらに副砲の大部分を収める船首楼甲板までに6インチの上部装甲帯が続く。
艦首尾はまず艦首が全長の半分程で中甲板の高さまでに6~4インチ。艦尾は全長の半分程が中甲板までに6インチ、途中で下甲板までに一段低くなって舵機械室を覆う範囲までに4インチ。それ以外は艦首尾とも非装甲に。
水平装甲は重要区画上で船首楼もしくは上甲板、下甲板の2層式。厚さは前者が1.25インチ~1.5インチ、後者が平坦部1インチ傾斜部不明。その外側では第一船倉甲板2.5インチ、各垂直装甲の上端にあたる甲板に1.25インチ。
主砲塔はベーベットのみ判明しており13インチ。水雷防御縦隔壁は弾薬庫横のみに最大1.5インチ。
船体形状や主兵装など見た目はQE級に近い本案だが、装甲配置についてはそれ以前のアイアンデューク級にベースに主装甲帯を増厚した感じである。
英15インチ砲艦と比較すると、主装甲帯の厚さで僅かに勝る代わりに、高さの違いから中甲板までの厚さでは劣る、一方で中甲板~上甲板の範囲では本案が上回るという具合。
また過去のブラジル艦と比較すると、これまた主装甲帯の高さが順調に低くなっている事になるが、本案は上部装甲帯の時点で既存艦の主装甲帯と同じ厚さで、主装甲帯が弾薬庫横で減厚しない事からも、間違いなく強化された事になる。
以上のように判明している大まかなスペックのみ見れば、一次大戦期の列強戦艦にも普通に負けないと言うか、一部艦を上回る程の強力な艦となる事が予想される。
(実際には砲戦指揮能力並びにソフト的な運用面の差も大きく影響すると思われる。本級は前部マスト上に観測所か指揮所と思われる場所を設けているが、指揮装置の詳細は不明。少なくともカナダなど当時の英戦艦が持つ、司令塔上の装甲化された方位盤塔は確認出来ない。またこの時期時に重要な主砲塔の防御がバーベット以外不明な点も評価を難しくしている)
ただし第一次大戦によって、ブラジルでの就役はどう考えても戦後以降になってしまう。この時期の環境では水平装甲がやはり対応できなくなり、この点で日米英が建造・計画した新型艦と比較すると劣る面もあるだろう。
それを除いても南米戦艦では圧倒的な存在となるはずの本艦だが、ブラジルの財政事情はそれを許さず、建造自体行われないまま計画は消滅している。
妄想になるが、もし本級が就役する事で南米の建艦競争が継続した場合、列強からの主力艦獲得も続くという事になり、条約で縛られた海軍国たちの技術実験場と化していたかも、なんて考えてみると面白いかもしれない。
もっとも当事者である3国共に、経済的な問題からさらなる海軍拡張は望んでおらず、また何らかの軍縮条約が結ばれて終結するだろう。
ちなみに搭載予定だった15インチ砲は、紆余曲折ありスペインが購入。沿岸砲台として使用され2000年代まで稼働状態であった。最後の一門は2008年にようやく退役。
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最後に
ブラジルの海軍拡張より始まる南米の弩級艦競争は、建造元の欧米諸国を巻き込んだ世界大戦の勃発と自国の経済的な問題から自然に終息している。
数少ない戦後の動向としては、チリ海軍がアルミランテ・ラトーレを買い戻したのに加え、コクレーンの代わりとしてもう一隻の戦艦を獲得する動きを見せていた。
これに対して英国はインヴィンシブル級の売却を提案した他、ヴィッカース社などが新たに巡洋戦艦の建造を持ちかけている。
その内容は排水量3万トン付近で速力28ノット、装甲は主装甲帯10インチ上部装甲帯6インチ、水平装甲4から2インチ。そしておそらく15インチ砲を搭載というもの。
もし完成していれば、ミニフッドというかスーパーレナウンのような便利な艦になっていただろうが、これも経済的な問題などで実現せず。
結果的に南米の弩級戦艦は、ブラジルとアルゼンチンに2隻ずつ、チリに1隻という状態で、これは戦艦の時代が終わるまで変わらないままだった。
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オスマン帝国・トルコ
レパント、ナヴァリノ、シノープと正直海戦ではやられ役のイメージしかないオスマン帝国。
それはともかく、17世紀末まではヨーロッパ諸国にとって恐怖の対象であったこの大帝国も、それ以降は下り坂に。
19世紀半ばまでには長年に渡るロシアとの戦いや民族運動によりヨーロッパ領の大半を失い、エジプトなどの重要地も自治を認めざるを得なくなるだけでなく、軍事力強化のための近代化も難航していた。
そして再びロシアと戦火を交えたクリミア戦争では英仏の介入により何とか勝利するも、介入前のシノープの海戦では炸裂弾を用いるロシア海軍の前に艦隊は壊滅。
各国に装甲艦の必要性を認識させたこの戦いでも、自国の海軍力の欠如を認識させられることになった。
・露土戦争まで
そんなオスマン帝国だが、装甲艦の黎明期である60年代には大規模な海軍増強を図っている。
これは時のスルタン(皇帝)アブデュルアズィズが、建国以来初となる欧州訪問時に装甲艦に感銘を受けたのがきっかけとされる。
1877年の露土戦争までに就役した艦をざっと紹介すると(カタカナ表記はあまり自信がないので注意)、まず排水量6000t以上の比較的大型な艦は5隻。
6400tの舷側砲列艦オスマニエ級の4隻と、9000tの中央砲廓艦メスディイェで、すべてイギリス製である。
これよりも小型(2000~4000t台)は10隻。
まずフランス製のアサル・テヴフィク、並びにアサル・シェヴィキット級2隻は、当時の仏艦によく見られる中央砲廓の上にバーベットを設けた併用艦。同じくリュフト・ジェリール級2隻もフランス製だが、こちらは連装砲塔2基の砲塔艦。
残りはイギリス製の中央砲廓艦アヴニッラ級が2隻、そのマイナーチェンジ版(砲廓の形状が異なる)フェトヒ・ブュレント級は、一番艦は英国、二番艦は国内で建造されている。
最後のイジュラリエも中央砲廓・バーベット併用艦だが、こちらはオーストリア製。
さらに1000t未満の小型装甲艦、モニターを7隻保有する。
実はこれ以外にも就役しなかった艦が複数あり、1964年英国で起工としたファーティは、排水量1万トン近い当時としてはかなり大型の有力艦だったが、建造途中にプロイセンが購入しケーニヒ・ヴィルヘルムとして1869年に竣工。後のドイツ海軍で初期の主力を担うことに。
メスディイェの同型艦マムディイェは1871年に起工するも、ロシアとの戦争を見越した英海軍が購入。シュパーブの名前で1880年竣工。
ペイキ・シュレフ級は4千トン台とやや小型の船体に12インチ砲(他の装甲艦は最も大きいメスディイェが10インチ砲を持つ以外は、9インチ砲程度が主兵装だった)を搭載した中央砲廓艦。
こちらは1874年に起工するも、同じ理由で英海軍のものとなり、ベリール、オライオンの名前でそれぞれ78~82年に就役。ベリールは一線を退いた後に標的艦となり、リダイト弾、つまりピクリン酸を使用した榴弾の実験に供されたことでも有名である。
実際に就役した装甲艦だけでも15隻という艦隊の規模は、ロシアやイタリア、オーストリアといった周辺国家にも負けないどころか上回るほどの大艦隊である。
ただそれは、クリミア戦争以降悪化していく財政を抱えた国内事情に合った物かというと、疑問符の付くものであった。
そもそも、この時代はドレッドノート以降の狂騒ほどではないとは言え、艦のインフレも着実に起こっており、その戦力もいずれ旧式化する。
実際80年代になると長砲身の後装砲を砲塔もしくはバーベットに収め、装甲も複合装甲や鋼を用いた艦が主流になり、舷側搭載の短砲身前装砲と錬鉄装甲が主体となるオスマンの装甲艦も見劣りし始める。
これに対抗するには今まで通り新型艦を購入して更新するのが手っ取り早いが、これまでの増強費で圧迫された財政にこれ以上負担をかけることは難しい。
国内での建造なら公共事業的な面もあるので負担は軽くなるが、残念ながらオスマン帝国にはこれを行う資金に加え造船技術も育たなかったようで、こちらも行えなかった。
上で紹介した装甲艦の内、77年までに国内で建造されたの一隻のみだったが、実はこれ以外にも計画は存在する。
まず最初にオスマニエ級に準ずると思われる、6千トン台のフェッタが1864年国内で起工される予定だったようだが、計画は実行されず。
同じくメスディイェの小型版であるハミディイェは74年に建造に着手するも、進水するまでに10年、完成させるまでにもう10年という年月を要している。(他にも巡洋艦一隻建造するのに14年という例も)
竣工は94年とロイヤルサブリン級よりも遅いもので、この例から当時のオスマンには、国内で主力艦更新を行えるほどの経済的余裕や造船能力を有していなかった事がうかがえる。
さらに言えば艦隊を運用する乗組員も、多くは金で雇われた外国人に頼りきっていた点も問題であった。
(蒸気機関の運用など技術的な役職だけでなく、一般の船乗りもこれまで重用されてきた北アフリカやエーゲ海の海洋民を領土と共に失ったことから、少なくない数を外国人に頼っていた)
つまり強大な艦隊を用意したまでは良いが、この時点でそれを戦力として維持するのに必要な技術・人材は国内に育っていなかったのである。
もちろんこう言った状況は、程度の違いこそあれ他の中小海軍にも言えることであったが、オスマンの場合は保有する戦力との乖離が特に大きいことが指摘できる。
そして本格的な資金難の時代に突入する前に、この状態を解消できなかったことが、以降のオスマン海軍を苦しめるのである。
以下のような問題があったとはいえ、この艦隊整備により1877年の露土戦争時にはロシア黒海艦隊を戦力で圧倒することには成功している。
(というかロシアの装甲艦は大体バルト海に配備され、黒海には円形砲艦が二隻いるだけだった)
この戦争は水雷艇が活躍し始めた最初の戦争でもあり、オスマン海軍はその実力を十分に発揮できたとは言い難いものだったので、語ることは少ない。
ただ無視できない事も一つあり、リュフト・ジェリールが陸上砲台と交戦中に爆沈している。おそらく15cm臼砲から放たれた大落角の砲弾が甲板か砲塔を貫いたものと思われる。
一応ユトランドよりもはるか前のこの時代から、臼砲弾が甲板を直撃した場合のことは各国海軍でも懸念されており、薄いとは言え水平装甲を貼った艦も登場していた。
ただ同艦は水平装甲がまったく無い艦だったので、このような結果になったのには驚きはしない。
・露土戦争以降
敗戦後のオスマン海軍は、スルタンの代替わりなどに伴う経済重視政策の影響もあり、満足な資金が得られない状況に陥っていた。
それは今まで頼っていた外国人技術者への給与支払いが滞る事を意味しており、彼らが去った結果が、まともに整備や訓練を行えないままに港内で置物と化した艦隊という惨状であった。
(有名なエルトゥールル号事件も、こういった状況下での練度の低下が背景にあるとされている)
もっとも国際情勢に合わせて海軍戦力を増強する事の必要性自体は認識されており、1890年には隣国ギリシャが装甲艦を獲得した事から再び主力艦獲得が検討されている。
ギリシャ海軍が3隻を獲得したフランス製のイドラ級装甲艦は、詳細は後述するが長砲身の274mm後装砲3門を持ち、旧式の自国艦では太刀打ちできないことは明らかである。
これに対して1892年に戦艦アブデュル・カーディルを起工。再び自国での主力艦建造を試みている。
排水量8,100tの同艦は、主砲にクルップ式の後装28cm(283mm)砲を連装砲塔で前後部に2基、その他15cm速射砲などを含兵装として搭載。
装甲配置は水線部の狭い範囲のみ最大9インチのコンプリートベルトを持ち、それよりも上には船体中央の副砲を守る範囲で4インチの上部装甲帯を持つ。
兵装や装甲の配置は同時期の艦だとフランスのブレニュスに近いように思える。
イドラ級と比較するとこちらは片舷の火力で上回り、装甲は最厚部では劣るが上部装甲帯を持たない同級に対して装甲範囲で優位と。カタログ上は十分優位を持てる艦である。
しかし起工されたのは1隻のみで、その1隻にしろ諸事情で完成には至っていない。
結局既存の装甲艦しか頼る物がなくなったオスマンだが、90年代にはその中から比較的状態のマシな物を大改装する計画も立てられ、こちらは無事実行されている。
(計画完了前にギリシャとの希土戦争が起こってしまうが、幸い列強の干渉により海戦は起こらず、戦争自体も勝利している)
ここで改装されたのはオスマニエ級、メスディイェ、アサル・テヴフィク、アヴィニッラ級、フェトヒ・ビュレントの計9隻。
工事はイタリアのアンサルド社が請け負い、主な内容としては火砲の後装砲化など兵装の更新、老朽化した機関の換装と帆の撤去、司令塔の追加などを含む上構の変化も。
この結果は各自画像検索等をしてもらえば一目瞭然だが、どの艦も帆船時代の面影を残した元の姿から大きく外見を変えている。
中でも最も大型で有力だったメスディイェの改装は大規模なもので、外見なら後のコンテ・ディ・カブール級よりも変わったと言って良いかもしれない。
兵装はこれまでの10インチ前装砲に変わり45口径6インチ速射砲を砲廓内に収め、さらに艦の前後部に40口径9.2インチ砲の単装砲塔2基を主砲として追加。同時期の英一等巡洋艦に準ずる物が計画された。
機関も最大速力を約14ノットから17ノットにまで強化。煙突が太くなったのに加え、結構大型の上構も追加。単脚マストが一本だけ立つイタリア風の艦影となっている。
ただし不本意に終わった部分もあり、実際の改装では9.2インチ砲は砲塔は設置されるも砲は搭載されず、さらに装甲関連は全く手つかずに終わっている。
本級は水線部12インチ、それよりも上部の砲廓に10インチと厚い装甲を持つが、所詮は錬鉄なので当時の砲弾への防御力はクルップ鋼の4割程度しかない。
それでも当時の装甲巡より若干薄いという程度だが、もし装甲の換装も出来ていたら、防御力を増したり浮いた重量で色々と出来ただろう。
このように大改装といっても、列強海軍が持つ初期の装甲巡と比較できるかどうかという戦力に留まっているが、元の艦よりはその価値を大きく上げた事は言うまではない。
希土戦争に勝利したとはいえ、ギリシャはイドラ級が健在なうえに、新たに有力な装甲巡洋艦イェロギオフ・アヴェロフをイタリアより獲得するなど、未だに改装艦だけでは対抗できない戦力を有していた。
そこで青年トルコ革命を経た1909年、急速な海軍拡張で旧式艦が多数出ていたドイツとの間で戦艦購入に関する交渉が行われる。
当初トルコ側はアヴェロフへの対抗から巡洋戦艦の獲得を望んでいたが、さすがに新型艦だけあって認められず。(5年後に実現するが)
その代わりにドイツ戦艦群で最も旧式だが、それでも戦艦としてはイドラ級よりも格上のブランデンブルク級2隻を獲得した。同級についてはドイツ戦艦編を参照。
なお海軍増強はこれで終わらずに、10年代に入るとついにド級戦艦の獲得に乗り出すことになるが、その前にこれまでの艦が経験した第一次大戦前の戦争に軽く触れてこの項を終えたい。
まずは1911年オスマン領であったリビアを狙うイタリアとの間で伊土戦争が勃発。ギリシャをはるかに上回る戦力を持つ同海軍相手には、折角の艦隊も打って出ることはできずに活動は限られた。
改装艦が経験した水上戦は、ガリバルディ級2隻を主力とした伊艦隊によるベイルート襲撃時に、アヴニッラが撃沈されたのが唯一の例である。
再び弱体ぶりを晒したオスマンに対して、バルカン半島内に残る支配地域をめぐり、今度はギリシャなどバルカン4国が宣戦布告しバルカン戦争が勃発。
ここでオスマン海軍は、エリの海戦とレムノスの海戦という2つの海戦で、ついにギリシャ艦隊(イドラ級3隻とアヴェロフ)と砲火を交える事になる。
ブランデブルグ級2隻にメスディイェ、そしてエリの海戦のみアサル・シュヴィキットを投入したオスマン海軍だが、両海戦とも惨敗。
撃沈された艦こそいなかったが、基本的に砲撃精度の差が大きすぎて、ギリシャ艦隊にまともに損傷を与えることすらできなかった。やはりこの時代においても、兵器だけでなくそれを使用する人材が重要という、当たり前の事を認識させる結果だろう。
同海戦でのブランデブルグの損傷は別に触れたが、この他にメスディイェの砲廓内に27cm砲弾が侵入、複数の6インチ砲が使用不能になっている。
フランス製27cm砲は三景艦など同時期の輸出艦の例から鋼製砲弾を使用するものと思われ、その場合砲廓を守る10インチの錬鉄を抜くのには苦労しないだろう。
また建造時の推定よりもはるかに遠距離での戦闘であるため、上面の甲板を抜いた可能性も無くはない。
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レシャド五世 (レシャディエ)→エリン(英)
装甲厚
垂直装甲 305mmKC → 25mmHT傾斜57度内傾 → 38mmHT
砲塔前盾 279mmKC 傾斜約 度内傾
バーベット(露出部) 254mmKC
バーベット(艦内部) 229mmKC→ 76mm
水平装甲 38mmHT → 25mmHT ≒52mmHT
砲塔天蓋 76mmKNC
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 ギリギリあり
2隻が計画されヴィッカースが担当、一番艦11年より、二番艦はリオデジャネイロの購入を経て追加で14年より
実は設計は発注先のヴィッカース社ではなく、アームストロング社である。なぜ設計と建造が別会社か言うと、当時の英企業が他国企業との軍艦輸出競争の中、同国人同士の無駄な争いを避けようと、事前に情報共有や作業の分担を行うよう協定を結んでいた事による。(なおヴィッカースが賄賂で契約を独占した金剛の件は特例)
その中で本級の建造では、船体及び機関、主砲の半分はヴィッカース社が担当したが、艦の設計並びに残り主砲半分はアームストロング社、装甲板をジョンブラウンとキャメルレアード社が、という風に協議の元分担が行われていたのである。
知られているように一次大戦の勃発後、同盟国側に使用される事を恐れたイギリス政府により、完成直後のレシャディエはオスマン一世と共に接収、起工直後の二番艦も建造中止となってしまう。
イギリス側にとって、トルコとの関係はロシアとの協商関係もあって以前より親密とは言えない物になっており、青年トルコ政権自体親独寄りとの見方もあった、つまり元々有事の際には敵国になり得る存在である。
また実際に接収と同じ日にはドイツとの間で秘密同盟を締結し、親独対露路線へと進んでいた事は間違いなく、結果としては接収は妥当であった節もある。
ただ本級の建造自体が関係改善の意図を持つもので、建造費も国民からの多額の寄付が用いられるなど、大きな期待が寄せられたものであった。それがこのような形で終わった事は、国民感情を大きく刺激し参戦を促した事は間違いない。
ヤウズ・スルタン・セリム 元ゲーベン(独)
装甲厚
垂直装甲 270mmKC → 25mmNS×2傾斜 度内傾 → 30mmNS
砲塔前盾 230mmKC 傾斜約 度内傾
バーベット(露出部) 200mmKC
バーベット(艦内部) 150mmKC → 80mm
水平装甲 35mmNS → 25mmNS ≒ 49mmNS
砲塔天蓋 60mmNS
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 あり
一層ドイツよりの立場を固める事になり、同盟国参戦を大きく促す。ドイツ艦としては最も戦略的な戦果を挙げた艦と言えるだろう。
トルコ海軍にとっても英国の接収によって成しえなかった、初の弩級艦(巡洋戦艦)の保有を実現したことになる。
(ただし一部では中立維持や参戦回避を模索していた政府にとっては非常に頭の痛い話題であり、結局帝国が崩壊する戦争へと逃げ道をなくす役目にもなってしまったが)
モルトケ級の防御様式はドイツ戦艦編でも扱っている。
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ギリシャ
近代ギリシャは1832年にオスマン帝国より独立した新興国であり、独立後の仮想敵も未だにギリシャ人の居住区域を多数支配していた同国であった。
海軍も60年代には装甲艦の保有に乗り出し、英国とオーストリアより2000t程度の中央砲廓艦を1隻ずつ獲得するも、この時点ではオスマンの大艦隊には大きく劣っていた。
それに対して90年代にはフランスよりイドラ級装甲艦を3隻獲得。旧式化と練度の低下が激しい同海軍に対して、一部で優位を持つことに成功している。
同級は排水量5000t弱とそこまで大型ではないが、主砲は長砲身(34口径と28口径の混載)により高初速・高威力を持つ後装式274mm砲を採用。
配置はとても独特で、前部は艦橋周辺に設けたバーベット上に34口径砲を単装1門ずつ並列配置、後部には28口径砲を単装砲塔で1基で計3門を搭載している。
速力は他艦に対して3ノット程度の優位を持つ17ノット。装甲も錬鉄ではなく軟鋼か複合装甲を使用し、最大300mmの主装甲帯が水線部の艦首から艦尾までを覆うなど、額面上は強力であった。
この時代のフランス製装甲艦の特徴として、重要区画外にも垂直装甲を持つ代わりに全体的に高さがなく、水線上のわずかな範囲しか防御出来ていないというものがある。チリのカピタン・プラットも同じ配置。
つまり水線上の船体は大部分が非装甲であり、内部の石炭庫や細分化により被害を減らす事しかできていない。
なので額面上は強力という言葉を使ったが、これが問題になるのは速射砲などが一般化する90年代以降の艦相手で、それを持たないオスマンの装甲艦へは十分な防御力を有していたと思われる。
これに対してオスマン側も旧式艦の大改装を実施。個艦性能は別として、戦力として期待できる艦の数ではギリシャ側の不利は否めなかった。
そこで敵艦艇にない速力を持つ艦として、装甲巡洋艦イェロギオフ・アヴェロフを購入。1907年よりイタリアで建造された同艦は1911年に竣工している。
同艦は巡洋戦艦への過渡期的な艦である伊ピサ級の準同型艦で、9.2インチ連装砲を中心線に2基4門、7.5インチ連装砲を片舷2基8門搭載する大火力と、23ノットの高速力を有している。
防御面をみると水線部には最大200mm、その上部にも180から175mmの装甲帯が貼られており、装甲厚やその範囲は装甲巡の中でもトップクラス。
実はクルップ鋼とハーヴェイ鋼のどちらが使用されたかは把握していないが、どちらにせよブランデンブルク級以外の艦を上回る防御力を持ち、同級に対しても装甲範囲では勝る。
最強クラスの装甲巡とはいえ、巡洋戦艦の登場以降は大きく価値を落としてしまうのが宿命だが、それを持たない(ゲーベン獲得以前の)オスマンにとっては、 非常に有効な戦力である。
そしてバルカン戦争では先述したように、この2クラスの活躍によりオスマン艦隊を打ち破ることに成功する。
以降はバルカン戦争勃発前よりオスマンの海軍拡張に対抗して、ギリシャも弩級戦艦の整備へ動き、後述するドイツ製のサラミス、そして仏ブルターニュ級の1隻を獲得予定であった。
しかし竣工は1、2年遅れると予想され、とりあえず間を埋める戦力をという事で、ドイツと同じく前ド級戦艦を持て余していた米国よりミシシッピ級戦艦2隻を1914年購入、キルキス級として就役させている。
同級は1908年竣工と前ド級戦艦としては新しい部類の艦だったが、コスト削減のために前級と比べて排水量を3000t切り詰めた小型艦である。
これにより副砲の門数に装甲厚、最大速力や航続距離に凌波性などが犠牲になり、米海軍にとって不満のある艦であったと言われている。
といってもエーゲ海を本拠とするギリシャ海軍で、ブランデブルク級に対抗する上では十分か。やはり弩級艦が就役すると力不足は否めないが、つなぎの戦力としては十分だったと思われる。
ちなみに米国が両艦の売却で得た資金は、当時計画されていたニューメキシコ級戦艦を建造するのに充てられた。
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サラミス
装甲厚
垂直装甲 250mmKC → 不明 →
砲塔前盾 250mmKC 傾斜約 度内傾
バーベット(露出部) 251mmKC
バーベット(艦内部) 不明
水平装甲 不明
砲塔天蓋 100mm
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 不明
ブルターニュ級についてはフランス戦艦編を参照
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スペイン
スペインは大航海時代に得た覇権の座こそ17世紀には失ってしまうものの、ナポレオン戦争期においても英仏に次ぐ規模の艦隊を保有する海軍国であった。
しかし戦後は半島戦争が大きな傷跡を残した事に加え、南米各地での植民地の独立、国内ではカルリスタ戦争と国家として混乱と衰退の一途にあり、海軍も大きく縮小せざるを得ない状態になってしまう。
それでも蒸気船や装甲艦など艦艇の近代化が進む19世紀半ばには、ちょうど政治、経済的な安定期であった事から、外国からの購入や造船設備の更新を行い、装甲艦を含む新規艦隊の整備に成功している。
この結果として1870年までに獲得したのは、一定のサイズを持つ航洋装甲艦7隻、そして小型のモニターと浮き砲台2隻。
これは南米各国に対して優位というだけでなく、航洋艦に限る場合であるが、英仏伊に次ぐ世界第4位の装甲艦戦力をこの時点では持っていた事になる。(沿岸戦力を含めた場合は米露が上回る)
航洋艦7隻を簡単に見ると、排水量は7千から3千トン台、4隻が68ポンド滑腔砲を多数並べた舷側砲列艦、他の3隻はアームストロング式9インチ前装ライフル砲など、より強力な砲を少数搭載する中央砲郭艦である。
装甲は初期の装甲艦らしく、いずれの艦も水線部と兵装を4.5~5インチ程度の錬鉄で防御し、水平装甲は持たない。
このうち3隻は英仏より購入したものだが、残りは国産艦であり、この点では70年代までにスペインを上回る大艦隊を手に入れるが、外国に頼りきりだったオスマン帝国とは異なる。
同じく大航海時代に活躍した国家でありながら、装甲艦を1隻しか獲得できなかった(しかも同艦を1930年代まで使い続けた)ポルトガルと比較しても、遥かに恵まれた状態と言えるだろう。
(なお詳しくは扱わないが、この装甲艦ヴァスコ・ダ・ガマは20世紀の初め頃にイタリアで大改装を行いほとんど別物になるという、メスディイェと同じような艦歴をたどっている)
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米西戦争期の主な艦
オスマンの項目で述べたように、どんな大艦隊であっても陳腐化、旧式化は避けられず、これに対応するには新規艦の獲得や既存艦の改装による整備が必須である。
この部分でスペインはどうだったかと言うと、70年代前後以降は再度の政変で再び混乱期に入り、植民地キューバの独立運動とそれに伴う米国との関係悪化の中でも、すぐさま艦隊を更新する程の余裕はなかったようだ。
しかしチリとアルゼンチンの建艦競争や米海軍の改革が始まる80年代になると、この国もフランス製装甲艦のペラヨを購入、1888年に竣工させている。
同艦は仏マルソー級を基にした排水量一万トン弱の艦で、タンブルホームが顕著な船体に主砲は単装砲4門を菱形配置という、この時期の典型的なフランス艦の特徴を持つ。
装甲配置も軟鋼製450~300mmの装甲帯が艦の水線部全周を覆う代わりに、高さが無く乾舷の殆どが非装甲になるフランス式配置である。
ただし主砲は仏艦とは少し異なり、中心線上に320mm砲、舷側に280mm砲とより大口径の砲を全てドーム状の防盾付きバーベット内に納めている。(この他には非速射砲の16cm砲1門、12cm砲12門搭載)
この内320mm砲は日本の三景艦と同じ物だが、より大型の本艦なら、もう少しまともに運用できただろうか。
同艦は複数隻が計画されるも、植民地防衛に適した足の早い(本艦が16ノットなのに対して20ノット発揮)装甲巡洋艦の整備が優先され、建造は一隻に留まっている。
この装甲巡も見ておくと、まずインファンタ・マリア・テレサ級の3隻が1892年に竣工。
排水量7千トン弱の本級は、主砲としてペラヨにも搭載された35口径280mm単装砲を前後のバーベット(同じく防楯を持つが形状はより砲室らしい形に)に2門、その他35口径14cm砲(非速射砲)10門など副兵装を搭載。
装甲も前後主砲間には(不明だが軟鋼か複合装甲製で)最大12インチの装甲帯を持ち、主砲バーベットも9インチと、クルップ鋼換算でも結構な厚さを持っている。
ただし防御範囲は水線付近の非常に狭い範囲に限られ、装甲巡は装甲巡でも、仏デュピイ・ド・ローム(96年竣工)以前の装甲「帯」巡洋艦と呼ばれるものである。
続く95年竣工のインペラドル・カルロス5世は、排水量9千トン台と大型化し、武装も前級とほぼ同じ(新たに10cm速射砲を4門搭載)艦だが、装甲配置から見ると装甲巡と防護巡の中間とも言うべき興味深い形を示している。
水線部の主装甲帯は厚さ僅か50mmに削減された代わりに、同厚の装甲が船体上部の副砲砲郭ならびにブルワークにも施され、この範囲で中小口径の榴弾に対する防御を獲得している。
水平装甲は装甲帯上端の甲板に50mm厚が施されるが、どうやらこの甲板は外側では最大165mm(155mmとも)の傾斜部を持つ亀甲甲板になるようだ。
現時点では資料の限界から確信は持てないが、この傾斜部が装甲帯の下端に接続するのであれば、装甲帯と背後の傾斜部の多重防御となるので、装甲帯の薄さに反して垂直防御自体はかなりの防御力を持つ事も考えられるだろう。
(本艦は多重防御を初期に採用したデュピイ・ド・ロームより建造自体は後なので、採用されていてもおかしくはないが、垂直装甲の無い艦首尾のみに存在した可能性も現時点では否定はできない)
そして次は色々な海軍で使われる事に定評のあるイタリアのガリバルディ級で、クリストバル・コロンの名前で96年に就役。
ただし本艦は元の40口径10インチ砲に代わり42口径24cm砲を2門搭載する予定が、結局主砲を搭載しないまま戦争を迎えている。
スペインはこの時点で米西戦争に臨むことになるが、同戦争中最大の海戦であるサンチャゴ・デ・キューバの海戦では参加した装甲巡4隻(テレサ級3隻並びにクリストバル・コロン)すべてを失う大敗を喫してしまう。
この海戦では士気や砲術精度の低迷、炸裂弾を砂填の盲弾として使用する、機関不調により20ノット出るはずの艦が計画速力15ノットのオレゴンに追い回されるなど、スペイン側の不備が目立つ海戦だったと言える。(最後はオレゴンが質のいいウェールズ炭を使っていたのも理由になるが)
戦争自体にも敗北し、その後超大国に成長していくアメリカの踏み台となってしまう形に。
なおペラヨは戦争勃発時には改装中で、これを切り上げて艦隊が壊滅したフィリピンに向かうも、同海戦の敗北で米海軍の本土襲来に備えて帰還。最後まで戦闘に参加する機会はなかった。
最後の装甲巡はプリンセサ・デ・アストゥリアス級で、米西戦争後の1903から4年に3隻が竣工。
本級は基本的にテレサ級の改良版で、主砲を先述した24cm砲2門に変更したのが主な変更点である。その他の装甲範囲の狭さなどは健在なので、この時期の装甲巡としてはやや見劣りするのは否めないだろう。
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エスパーニャ級
1909~12年起工 1913~37年就役
139.9m 15,400t(常) 50口径12インチ砲 連装4基8門 19.5ノット
装甲厚
垂直装甲 230mmKC → 30mmHT 約55度内傾 → 38mmHT
砲塔前盾 250mmKC 約27度内傾
バーベット(露出部) 250mmKC
バーベット(艦内部)150mmKC→ 70mmKNC
水平装甲 40mmHT → 25mmHT ≒ 54mmHT
砲塔天蓋 75mmKNC 傾斜9度/横傾斜7度
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 あり
米西戦争の敗北から海軍を再建すべく、スペインは1907年より3隻の戦艦整備を計画。こうして初の弩級戦艦として建造されたのがエスパーニャ級戦艦である。
この時期のスペイン海軍は英企業の強い影響下にあり、本級の計画も仏伊の企業による提案も存在したが、最終的にヴィッカース、アームストロング、ジョンブラウンの3社の支援のもと、国内の造船所で建造された。
(最後に起工されたハイメ一世は世界大戦の勃発で部品の供給が滞り、完成は戦後の21年までずれ込んでいる)
本級はスペインの微妙な立ち位置や経済、工業力の限界から、防御的な戦力として位置付けられ、結果として排水量は1万5千トン程度と、実際に就役した弩級戦艦としては最も小型な艦として完成している。常備でこのサイズはロードネルソン、ダントン、薩摩、コネチカットと言った前・準弩級艦よりも軽量である。
具体的に見ていくと、まず主砲はヴィッカース式の50口径12インチを採用し、連装砲4基を前後部と船体中央の梯形配置、同時期の艦だとインディファティガブルやフォンデアタンのような形で8門搭載。
理論上は片舷に全門を指向できるが、実際は爆風を考慮すると6門で弩級艦としては控えめに。また50口径砲は英海軍ではあまり評判のよくなかった物だが、本級での運用の際には特に問題はなかったようだ。
副砲は当時の英弩級艦に準じた対水雷艇用の50口径4インチ砲で、これを単装で中甲板上の砲郭に20門搭載。
また機関には蒸気タービンを採用しつつも、最大速力は弩級艦としては遅めの19.5ノット(公試では20ノット強を発揮)。燃料搭載量も英戦艦より少なく、航続距離を犠牲に重量を節約している。
防御面も排水量相応の控えめな物である。具体的に見ていくと、船体形状は平甲板型で、重要区画上を通る甲板は上中下の三層。
まず垂直装甲は、重要区画内では下甲板の高さまでにある主装甲帯が230mm(バッキング19mm)と最も厚く、その上には中甲板までに150mm、上甲板までには副砲廓も兼ねる75mmの上部装甲帯(バッキング14mm)を持ち、乾舷全体を装甲範囲としている。
そして重要区画外の艦首尾では、艦首は中甲板まで、艦尾は下甲板の高さまでに100~75mmの補助装甲帯を持つ。
水平装甲は重要区画上は上甲板と下甲板の二層式で、前者が40mm、後者は水平部25mmで外側で傾斜部30mmとなり装甲帯の下端に接続。重要区画外では艦首は中甲板50mm、下甲板40mmの二層式、艦尾には第一船倉甲板に50mmを有する。
他には重要区画間では水雷防御用の縦隔壁38mmが下甲板以下に設けられた。
主砲塔は前盾250mm、天蓋75mm。バーベットは露出部が基本250mmだが、二番砲塔の舷側に接している部分は230mmである。
材質は100mm以上の垂直装甲がKC、それ以外の垂直装甲や砲塔天蓋などがKNC、甲板の水平装甲や隔壁はHTである。
全体的な装甲配置としては、英海軍を始めとしてこの時期一般的だった「分散的な」配置である。ただしコロッサス級までの英弩級戦艦は、上部装甲帯を中甲板までしか持たない(それに合わせて水平装甲も中下の2層に)のに対し、本級は薄いながらも中~上甲板間にも装甲を有しているのが特徴と言える。
その他部位の装甲厚は英戦艦と比較すると、小型化した分船体の垂直装甲などがやや減厚。ライオン級などの英巡戦や英国製輸出戦艦などと比較できる規模に留まっている。
といっても竣工時の環境においては、当時の不完全な砲弾相手なら、12インチ砲に対してある程度の防御力は持っていたと考えられる。
一方で当時の砲弾相手でも、砲塔天蓋の厚さは明らかに不足すると思われ、ここでの誘爆から爆沈する可能性含め、大きな弱点となるだろう。
また戦間期以降の環境を考えると、防御面の改装をまったく受けていない本級の不足は明らかである。
この時期のより進歩した砲弾へは、天蓋だけでなく、有効な遅動信管の働きによって水平装甲が二層とも破られたり、また主装甲帯が低い本級の配置では、上部装甲帯の150mm部分を抜いた砲弾が、さらに下甲板を貫いて重要区画に達するルートも考えられる。
また12インチ砲が相手としても、そもそも最厚部すら素の装甲厚が足りなくなる気もあるだろう。
編集中
正直当時のスペイン海軍がどこを仮想敵にしていたか知らないので比較の仕様が無いが、個艦では他の弩級艦に対してちょっと厳しい面もあると言わざるを得ない。
しかし弩級艦三隻というのは、列強海軍以外と戦うのなら十分すぎる物だし、保有数を勘定に入れれば南米海軍にも劣らないと言えるのではないだろうか。
そしてスペインは両大戦を中立で過ごした為、実際に列強海軍と戦う必要はなかったが、本級の三隻はすべて結構壮絶な最期を遂げたことでも知られている。
まずエスパーニャは1923年リーフ戦争にて陸軍の支援に北アフリカへ派遣されるも、そこで座礁。離礁のために一部重量物を撤去する作業の中で嵐に遭い、船体が二つに割れて廃艦となってしまう。
残るアルフォンソ13世(31年にエスパーニャの名前を受け継ぐ)とハイメ1世はスペイン内戦に参加。フランコ側に属した前者は触雷沈没。共和派の後者は弾薬庫の爆発を起こして着底、のちに浮揚されるがそのまま廃艦となっている。
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以降の戦艦案
エスパーニャ級三隻を建造した後も、1913年にはさらなる戦艦の建造を計画。再びヴィッカースから提出された設計案にて搭載主砲は一気に15インチまで拡大した。
(ただし常備排水量20.500tとこちらも結構な小型艦。また搭載する15インチ砲は自国戦艦の42口径砲ではなく、イタリア向けに開発された40口径砲である)
結局特に計画は進展しなかったそうだが、第一次大戦後に再び別の計画が進められている。
この際にヴィッカースが提出した案が凄まじい。
777A・777B・778C・778Dの四つからなるこれらの案は、まず主砲は42口径15インチ砲を三連装3基(A・C)もしくは2基(B・D)搭載。
装甲はすべて同じ物で、まず垂直装甲は主装甲帯が12インチと普通だが、水平装甲は同時期の英計画艦に匹敵する7インチで、遠距離戦に完全に対応。
さらに驚くべきことに、これらの装甲配置はすべて集中防御様式が採用される予定だったそうだ。
同時期の英計画艦は集中防御に加え、内装式の傾斜装甲を採用し、垂直装甲を大幅に強化している。
この案でも18度程度の傾斜装甲となった場合、その対弾性能は既存の他国戦艦を上回る物になることが予想されるが、その可能性は低いそうだ。
速力は777案が25ノットだが、778案はCが33ノット、Dが31ノットと巡洋戦艦並みの高速を発揮。
排水量はAが29,500tに対し、Cは46,000t、Dも39,000tと非常に大型である。
この中でもC案は、現状わかっている範囲では垂直装甲がやや薄いのが欠点だが、現行の列強戦艦はもちろん、一部計画艦にも匹敵する艦になっていただろう。
(それでも英計画艦と比べると、J3案のマイナーチェンジ版ぐらいにしかならないのが恐ろしいところだが)
ただこの規模の艦となると、ワシントン条約にスペインが参加していなくとも保有は認められないだろうし、そもそもスペイン側がこのような艦を本当に欲していたかという話にもなる。
実際一連の案は承認されず、後に別案が提出されている。
こちらは排水量26.500t(基準か常備かは不明)、16インチ砲6門、装甲は垂直12インチ(これも傾斜なしか)水平弾薬庫6インチ機関部3インチ。
そして速力は21~23ノットという、小型版ネルソンのような低速戦艦だったと言われる。
本案は英国が他国海軍に提示した最後の戦艦案でもあるが、結局実現していない。
その後の計画としてはスペイン内戦終結後、イタリアの援助を受けて戦艦建造を試みる計画が存在したが、第二次大戦の勃発によりこちらも実現せず。
建造される艦はリットリオ級に近いものとされるが、詳細は不明である。
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オーストリア=ハンガリー
第一次大戦で解体されるとは言え、ヨーロッパの古豪であり海軍もイタリア並みの戦力を長年有してた同国をここに押し込むのは、やや心苦しい点もある。
ただし現時点では管理人がほとんど知識を有していない点もあり、更新はだいぶ後になりそう。せめてリッサ海戦はやりたい。
なお普墺戦争以降は上にもあるようにオーストリア=ハンガリーが名称として正しいと思われるが、本文ではハンガリーは省略させてほしい。
編集予定
同国の表面硬化(KC)装甲は基本的にヴィトコヴィッツという所の製鉄所で生産されたものだが、装甲研究の大家であるN.オクンによれば第一次大戦期のKC鋼の中でも特に優秀な物だという。
つまり本家クルップ社はおろか、日本海軍も採用した英ヴィッカース社、モリブデン鋼に着目した仏シュナイダー社の装甲すら凌ぐものだったという事である。
正直当時の砲弾相手なら、未だにオリジナルのクルップ鋼でも別に大丈夫ではと思わなくもないが、性能が良いのは色々と優位になる事に違いはない。
なお有名な話として、大戦後はチェコスロバキア領になり海軍とはあまり縁のなくなったこの製鉄所だが、1938年には条約失効で装甲生産が追い付かなくなった英国より発注を受けている。
ちょうどナチスドイツによって同国が併合されようとする中、1万トン以上の均質装甲が製造・輸送され、イラストリアス級航空母艦などに使用された。
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清国(というより定遠級)
西洋とは違う形で繁栄を極めた中華文明だが、19世紀には周辺国家と同じく比較的安定した社会により発展の機会を得られない状況に陥っていた。
その中でアヘン戦争やアロー戦争での敗北により西洋文明の脅威と直面。1860年代より近代化を図る努力が行われた。
海軍も西洋式の汽帆船の建造や購入を開始するが、1875年には日本の台湾出兵に対応できず、東アジア世界の中でも力が及ばない事を露呈してしまう。
この事実は海軍増強の必要性をさらに高め、購入艦艇も増加。当初は沿岸防御用のレンデル砲艦が中心だったが、80年代には装甲艦や巡洋艦といったより近代的な艦艇に切り替わっている。
なかでも1885年には当時の他のアジア海軍はもとより、西洋列強が極東に派遣していた艦艇を上回る有力な装甲艦2隻が就役した。これが日清戦争時の主力となる定遠級装甲艦である。
本級は1883年の時点で完成していたが、ドイツより回航される前に清仏戦争が勃発。
フランスとの外交問題を懸念したドイツ側の判断もあって戦力化は間に合わず、この戦争で清国海軍は多数の艦艇を失う結果となった。
当時のフランス極東艦隊に配備されたラ・ガリソニエール級やバヤールといった装甲艦は、両者とも植民地派遣用の二等艦といった具合で、単体でみれば攻防ともに本級の相手ではない。
仮に本級が参加していた場合、活躍できたかは結局練度にもよるとしか言いようがないが、少なくとも大きな圧力となっていたと思われる。
そして就役後は仮想敵である日本海軍に対して大きな優位を持つことになり、非常に恐れられた存在であった事はよく知られている。
定遠級以降の艦としては、さらに8隻の装甲艦を整備する計画があったが資金が持つわけもなく、以降の海軍増強は控えめなまま日清戦争を迎えている。
そして最大の海戦となった黄海海戦での本級の被害と戦果を見ておこう。(これ書くの四回目ぐらいな気ががする)
同海戦では主に速力と速射砲の火力で優位を持つ日本艦隊に対し、清国は巡洋艦5隻を失って敗北するわけだが、本級は2隻とも敵の速射砲による集中砲火を受けながらも生還している。
元となったインフレキシブルの配置は、エドワード・リードをはじめ一部の人間から非装甲区画の損傷が致命傷になると批判されてきたが、その意見を否定する結果と言えるだろう。
船体とは別に兵装への被害は、艦首にある15cm砲こそ火災で使用不能になったそうだが、バーベット式の主砲は機能を失うことはなかったという。
また日本側は速射砲以外にも、松島型(三景艦)に搭載された32cmの巨砲が存在した。
この砲は同海戦では故障続きで発射速度が1時間に1発ペースという有様だった事で知られているが、一応松島と厳島がそれぞれ鎮遠に一発命中を主張している。
ただしこれも大きな損傷にはなっていない。32cm砲の鋼鉄榴弾は当時の交戦距離で14インチの複合装甲を抜ける貫通力を有していたはずだが、やはり実戦では簡単にはいかないようだ。
(同海戦では単縦陣の日本艦隊に対して、清側は楔形の横陣で艦首から突っ込む形から始まったので、かなり角度がついていたと思われる)
日本艦隊の攻撃に十分な防御力を示した本級だが、次は主砲について。
日本側の記録によると2隻の与えた命中弾は装甲艦扶桑に1発、装甲コルベット比叡に1発、武装商船の西京丸に4発、そして日本艦隊の旗艦である防護巡洋艦松島に2発の計8発。
まず扶桑への一発は非装甲部の舷側に命中し、炸裂しないまま士官室などを貫いて海中に落下。損害は軽微。
比叡に命中した砲弾は下艦内下甲板付近の後部マストに命中して炸裂。周囲に火災を発生させて、この対処に追われた比叡は弾薬供給が出来なくなり戦闘能力を喪失。
修理の為列外に出るも、そのまま戦線復帰すること無く離脱している。
次の西京丸は一部不明な部分もあるが、舷側を抜いてそのまま船外に出た砲弾と、炸裂した砲弾が存在する。後者は舵機に繋がる蒸気管を破断し、一時同艦を操舵不能とした。
そして最も大きな損傷を与えたのは松島への命中弾で、一発はこれも舷側を貫いて海中に落ちただけだったが、もう一発は船体前部の副砲群で炸裂。周囲にある即応弾の誘爆を引きおこし、一気に乗員の四分の一が死傷。
さらに爆発による発射回路への被害と火災の対応の為、実質主兵装となっていた12cm速射砲が一時使用不能に。(また32cm砲も衝撃で尾栓の開閉に支障をきたし戦闘終了まで使用できないままだった)
加えて衝撃で司令塔からの操舵も一時不能になったことで、実質この一発で戦闘並びに旗艦能力の両方を失わせることに成功した。
以上のように本級の主砲は良くても大破止まりで、敵艦の撃沈には至っていないが、少なくとも炸裂弾が有効に機能した場合はかなり損傷を与えている事がわかる。
一方で被害をほとんど与えないまま舷側を突き抜けた砲弾、おそらく炸薬を持たない実体弾を使用したと思われる例も複数みられる。
軽装甲艦が多い日本艦に対して実体弾を使う意味はほとんどないはずだが、当時の清国海軍は予算や官僚の腐敗などが原因で、十分な炸裂弾が用意できなかったとされている。
(西太后の庭園造成に海軍予算が流用された事もあったと言われており、この点は同時期に皇室費を削ってまで富士型戦艦の建造を進めた明治天皇とよく対比される)
もし他艦含めてもう少し榴弾が自由に使えていたら、松島かせめて西京丸を沈めていた可能性もあり、この場合たとえ敗北しても日本側に痛い損失を与えていただろう。
そうならなかったのは自国の腐敗が招いた面があるとはいえ、やや不運だったといえる。
この海戦を生き残った艦艇の多くは威海衛の戦いで失われ、本級も定遠が魚雷並びに陸上からの砲撃で戦没(自沈に追い込まれ)、鎮遠は鹵獲されて終戦を迎える。
その後の清国は1908年に戦艦獲得を含む海軍再建案を打ち出すも、情勢はこれを許さず1911年に辛亥革命が勃発し滅亡。
新たに樹立された中華民国も、その支配は決して安定していたとは言えない物だったこともあり、以降は戦艦建造とは縁のないままだった。
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北欧海軍
北欧諸国ではデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドの四か国が、装甲艦もしくはそこから発展した戦艦に相当する主力艦艇を第二次大戦期までに保有した国家である。
これらの国家は国際社会における立ち位置や持てる海軍の制約などから、浅瀬が多く入り組んだ自国沿岸での活動を主とする艦を主力としている。
具体的には装甲艦の誕生以降はモニターなどの小型砲塔艦が中心となり、そして20世紀前後には、各国が建造した前弩級戦艦に近い要素を取り入れつつも、より小型な艦。つまり日本語では海防戦艦としてまとめられる艦が該当する。
個別に全て見ていくとかなりの量になると思われるが、一応国家ごとに装甲艦時代以降の流れと共に見ていきたい。
編集予定
デンマーク
まずデンマークは伝統ある海軍国の一つであり、コペンハーゲンの海戦でネルソンに敗れて以降は下り坂に入るものの、それでも北欧海軍の中では比較的大規模な装甲艦戦力を有している。
その一方で第二次大戦時に保有した海防戦艦という意味では、他の三国とはやや異なる性格の艦を選択したのも特徴である。
初期の装甲艦は、64年に第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の勃発に至るプロイセンとの対立の中で整備され、当初は帆装を持つ航洋装甲艦が中心であった。
装甲を持つ艦艇として最初に整備されたのは1862年に英国より購入した砲艦アブサロンだが、排水量500トンあまりで装甲も2.5インチと不十分であったため一般的に装甲艦扱いされる事はない
より本格的な艦としては戦列艦改装のダンネブロ、南軍向けの英国製装甲艦を購入したダンマーク、そして非装甲フリゲートより設計変更されたピーザ・スクラムの3隻が、64年から66年に竣工。
これらは3~4千トン台の船体に4.5インチ程度の錬鉄装甲、前装式の60ポンド滑腔砲や8インチライフル砲などの主兵装を持つ、やや小型だが典型的な装甲フリゲートもしくは舷側砲列艦に分類出来る艦である。
それらの艦に加え、ハンプトンローズ海戦でのモニターの活躍から砲塔艦の整備にも早期に乗り出し、まず上記の艦よりやや早い63年、英国製のロルフ・クラーケを獲得している。
同艦はプリンス・アルバートなど初期の英砲塔艦より起工は遅いが竣工は先で、またプロイセンとの戦争で実戦投入された事から、「欧州で最初に竣工し、実戦を経験した砲塔艦」という栄誉を得た艦である。
特徴として船体はある程度素の乾舷を持ち、加えて起倒式のブルワークを設ける。また帆装を有しているなど、米国式のモニターよりは航洋性を確保した英国様式の砲塔艦。
兵装も英国式のコールズ砲塔を前後に配置し、60ポンド滑腔砲を計4門搭載。装甲は錬鉄で舷側4.5~3.5インチ、砲塔7~4.5インチ。甲板は0.75インチだが、この厚さでは実戦で陸上からの打ち下ろしに対して不十分であった。
同艦の成果から、戦後には加えて2隻の砲塔艦が国内で建造された。
69年竣工のリンドーメンは2千トンと大型化する一方で、主砲は前部の1基2門に減少。ただし砲は前装式9インチライフル砲に強化され、装甲も舷側5~4.5インチ、砲塔5.5インチ、甲板1インチに。
そして71年竣工のゴームも同じく砲塔1基2門艦だが、その船体は既存艦とは大きく異なる。ブルワークを持たない低乾舷の船体に帆装も廃止され、砲塔こそコールズ式だが、より米国式のモニターに近い様式となった。
変更理由は不明。戦術的には(予備浮力を代償に)被弾面積の減少がメリットだが、それ以前にプロイセンとの争いに敗れ、より沿岸域の防衛が主任務となり航洋性が重視されなくなった結果とも指摘されている。
また主砲は10インチ砲2門、装甲は舷側7~6.2インチ、砲塔8インチ、甲板1インチとスペック上の攻防力も向上した。
以降の装甲艦は建造ペースを落としつつ個性豊かな艦が続いていく。
まず74年竣工のオーディンは排水量3千トンあまりの中央砲郭艦。と言っても欧州のそれとは異なり、帆装を持たず、艦首尾乾舷が非常に低い船体の中央部に方形の砲郭を載せている。
(欧州のそれから砲郭前後の艦首尾甲板を一層分取り除いた、もしくは砲郭側面が傾斜していない南北戦争のケースメイト艦と言うべき艦容である。また帆装の有無は異なるがブラジル海軍の艦に似る)
本艦は10インチ砲を砲郭の4隅に1門ずつ搭載(片舷火力2門)。装甲は舷側8~5インチ、砲郭が8インチと、より小型なゴームと同程度にとどまっている。
続いて79年竣工のヘルゴランは、一気に大型化し排水量5千トン台に。19世紀デンマーク海軍で最大の(どころか21世紀になるまでデンマーク海軍史上最大の艦艇であった)装甲艦である。
同艦はこれまでの艦とは違う独特な兵装配置が特徴である。主兵装は新たにクルップ式の後装砲を採用し、口径もさらに大型化した22口径12インチ砲に。これを単装1門で前部のバーベット(露砲塔)上に搭載。
そして主砲とは別に22口径26cm砲という、やや口径の小さい(それでもこれまでの装甲艦主砲より大きい)中間砲的な備砲を、中央部の砲郭4隅に1門ずつ計4門搭載している。
また装甲は舷側水線部が12~8インチ、砲郭とバーベットは10インチ。加えて水平装甲は中央部では舷側装甲上端の甲板19mmと砲郭上端の甲板39mmの二層に。艦首尾では前者のみになるが52mmに増厚。
船体規模だけでなく攻防力も順調に強化された本艦は、この時期の北欧は一線級の戦力であり、同時期ロシアやドイツなど周辺の列強が保有した装甲艦とも比較できる数少ない艦と言える。
前部砲塔(バーベット)の主砲と中央砲郭の中間砲という本艦の兵装配置は、インペラトールニコライ1世など、後に複数のロシア装甲艦に影響を与えたという。その事実からも、本艦の存在の大きさが伺える。
先述した通り以降ヘルゴランを上回る規模の艦は登場しない訳だが、その第一号として82年に竣工するトルデンスキョルは、そもそも装甲艦扱いして良いのかすらも怪しい変わり種である。
本艦は予算削減の結果2500トンあまりまで小型化した船体に、要求された14インチ主砲に魚雷発射管などを収めた結果として、攻防の双方で通常の装甲艦とは大きく異なる艦となった。
まず最大の特徴として装甲は思い切って舷側装甲を全廃。厚さ40~95mmの亀甲状の防護甲板のみを全長に渡って設け、船体装甲としている。
これは速射砲発達前の当時、重要区画への貫通弾を防ぐ事で艦を守るという意味では確かに効率の良い面もあり、本艦とは規模が違うが以前にはイタリア級装甲艦が採用した他、以降は防護巡として巡洋艦に流行する様式である。
なおこの亀甲甲板含め装甲材質は軟鋼となり、他の装甲箇所は主砲バーベット203mm、ドーム状の主砲防盾40mmなど。
そして第二の特徴として、主兵装は要求にあったデンマーク海軍最大の22口径14インチ砲だが、搭載門数は前部バーベット上の1門のみ。
このように亀甲甲板による船体防御と、艦の規模に対して巨大な砲を1門のみ設けた主兵装という、後の三景艦に近い構成になっているのだ。
ただし三景艦は巨砲がなくとも巡洋艦らしい汎用性を持っていたのに対して、こちらはよりレンデル砲艦的、つまりコストを抑えた大口径砲のプラットホームとしての要素が強く、そこにもう一つの役割である水雷衝角艦としての要素を加えた艦と言うべきか。
現実的に考えると巨砲運用の難しさや、竣工後の水雷や速射砲の発達に伴う相対的な価値の低下は避けられないが、大きな制約の中で割り切った設計を行った一例という意味で、非常に興味深い艦と言って良いだろう。
1887年竣工のイーヴァ・ヴィトフェルトは、再び以前の艦とは大きく異なる要素を取り入れ、その中には以降海防戦艦の時代に移っていく北欧の主力艦系譜の中でも注目に値する物を含んでいる。
同艦は排水量3392tとやや大型化し、船体は初めて全鋼製となったのに加え 艦首尾を含む艦の全体に比較的高い乾舷を有する平甲板型の船体形状を獲得。
さらに主兵装は35口径26cm砲を採用。この時期の傾向である小型化しつつも長砲身・高初速化で威力面をカバーした砲だが、これを艦の前後に1基ずつ単装で搭載した。
この相対的に高い乾舷に主砲塔を前後に1基ずつ搭載、という要素は後の近代戦艦の特徴でもあるが、同時に以降他国が整備した海防戦艦の基本的な要素でもあり、本艦はそれをいち早く取り入れた艦と評価できる。
防御面も2つの新しい要素が見られる。まず配置では艦首尾並びに舷側上部に垂直装甲は設けず非装甲に。アドミラル級など近い時期の装甲艦でも見られる、「集中的な」配置で重量を捻出した物と思われる。
各部位の厚さは、前後バーベットの手前までの範囲で水線部に限られた主装甲帯が292mm。水平装甲は主装甲帯上端にあたる中甲板が54mm。艦首尾では同厚で若干下に下がり、下向きに傾斜しつつ両端まで伸びる。
他には主砲バーベット216mm、ドーム状防盾40mm、下に伸びる揚弾筒が115mmなど。
これらの中でも舷側並びにバーベットの垂直装甲には装甲材質として新たに複合装甲を採用。該当範囲の実質防御力はこれまでにない物に。
前級でいち早く海防戦艦の基本形態へ到達したデンマーク海軍だが、続く艦ではその流れに乗る事はなく、空白期間の後にまず建造されたスキョルはモニター的な低乾舷艦であった。
97年竣工の同艦は、やはり予算の問題から排水量2500tと再び小型化。艦首のみブルワークを設け僅かに乾舷を確保するも、それ以外は全体的に低く、先述したように同時期の海防戦艦よりはモニターに近い船体を持つ。
そして主砲も40口径24cm砲を前部に1門のみ搭載。これをフランス式の円筒砲室を持つ新型の単装砲塔に。また今まで触れてこなかったが、これまで露天砲であった副砲も同じ形式の砲塔とし、12cm単装砲3基を艦尾に搭載。
装甲は船体形状もあって、乾舷全体に垂直装甲の範囲を拡大。厚さは中央部225mmから前後部175mm。水平装甲は装甲帯上端に接続し、かつ露天甲板でもある上甲板に32mm+19mmの二枚重ね。
その他には主砲砲室が200mm+25mm×2、天蓋32mm+19mm。なお砲室より下の構造は船体装甲の中で防御されている為バーベットは存在しない。副砲砲室120mm。
また装甲材質では舷側と主砲塔の垂直装甲にハーヴェイ鋼を採用。前級より減厚しつつも実質防御力は向上している。
ヘアロフ・トロレ級三番艦ピーザ・スクラム
1905年起工 就役1908~43年
87.4m 3725t(常) 口径24cm砲 15.7ノット
装甲厚
垂直装甲 195mmKC
砲塔前盾 190mmKC 傾斜なし
バーベット 185mmKC
水平装甲 45mmNS
砲塔天蓋 50mmNS
上部装甲帯→甲板 なし
上部装甲帯→傾斜部 なし
本級は1901年から1908年に3隻が竣工。長い建造間隔の間に若干の設計変更こそあったが、デンマーク主力艦で初めて姉妹艦を有する艦級と言える。
3隻の内ピーザ・スクラムのみ第二次大戦時にも戦闘艦艇として就役しており、自沈後にドイツ軍が浮揚して防空艦としても使用された。本級は装甲厚など各艦で異なる部分が存在するが、以降の解説は基本的に同艦についての物である。
艦の特徴を見ていくと、船体は三千トン台と他国海防戦艦と比較できる程度には大型化。一方配置自体は、ブルワークに加え短船首楼を設け艦首乾舷をさらに増しているが、基本的に前級をベースとした低乾舷艦である。
その他変更点として、主砲は既存のクルップ式に変えてボフォース式の43口径24cm砲(1番艦はカネー式40口径)に。この単装砲を前後に置き、門数は倍増。また船首楼を越えて撃つ必要から主砲塔の高さが引き上げられ、砲室と船体装甲の間を防御するバーベットが設けられた。
そして副砲は中央部の上構内に装甲化されたケースメイトを設け、速射砲である50口径15cm砲を4基搭載。こちらも火力を向上させつつも搭載位置が低い点は欠点となった。
装甲配置も前級をベースにしつつ一部変更点もあり、装甲帯は1番艦のみ前級と同じく全周を覆っていたが、2・3番艦では艦首の中頃で途切れそれより先は非装甲に。
装甲厚(ピーザ・スクラムの数値)を見ていくと装甲帯は中央部195mm前後部155mm、水平装甲は装甲帯のある範囲は上甲板に45mm。無い艦首では一段下の中甲板が65mm。
主砲は砲室190mm、バーベット185mm、天蓋50mm。加えて上構の副砲のケースメイト範囲のみ側面140mm天蓋26mm。その他には煙突基部に75mm。
装甲材質も順調に進歩し2番艦以降はクルップ鋼を採用。また全艦とも甲板や天蓋などの水平装甲は軟鋼に変えてニッケル鋼でこちらも強化。
編集中
本級の装甲厚と材質、そして他ページで述べた当時の徹甲弾の限界を考えると、その防御力は当時の戦艦にとっても案外やっかいな物のように思えるかもしれない。
ただ当然の事ながら、現実的な戦闘を考えた場合はさすがに限界があり、これは他国の海防戦艦とも共通する事であるが、最初という事でここでまとめて解説しておきたい。
ニールス・ユール
1914年起工 就役1923~43年
90m 3800t(常) 口径14.9cm砲 単装10基 16ノット
装甲厚
垂直装甲 195mmKC
砲塔装甲 なし
水平装甲 55mmNS
上部装甲帯→甲板 なし
上部装甲帯→傾斜部 なし
大型で船体装甲を持つ航洋砲艦、もしくは低速重装甲な小型巡洋艦と言うべきか
スウェーデン
アラン級
年起工 就役 ~ 年
89.7m 3650t() 44口径21cm砲 単装2基 16.5ノット
装甲厚
垂直装甲 175mmKC
砲塔前盾 190mmKC 約20度内傾
バーベット190 mmKC
水平装甲 11.5mm×2+25mm
砲塔天蓋 mm
上部装甲帯→甲板 なし
上部装甲帯→傾斜部 なし
オスカル2世
年起工 就役~ 年
97.9m 4273t(基準) 44口径21cm砲 単装2基 18ノット
装甲厚
垂直装甲(弾薬庫) 100mmKC → 15mm+35mm 度内傾
垂直装甲(機関部) 150mmKC → 15mm+35mm 度内傾
砲塔前盾 190mmKC 約20度内傾
バーベット 190mmKC
水平装甲 15mm+22mm
砲塔天蓋 不明
上部装甲帯→甲板 あり
上部装甲帯→傾斜部 あり
スヴェリイェ級
年起工 就役 ~ 年
m t() 口径cm砲 基 ノット
装甲厚
垂直装甲
砲塔前盾 約20度内傾
バーベット
水平装甲
砲塔天蓋
ノルウェー
ノルゲ級
1899年起工 就役1901~40年
94.6m 3645t(常備) 44口径21cm砲 単装2基 16.9ノット
装甲厚
垂直装甲 152mmKC → 25mm×2
砲塔前盾 229mmNS 約18度内傾
バーベット 152mmNS
水平装甲 25mmNS
砲塔天蓋 mm
ニダロス級(→英ゴルゴン級モニター)
フィンランド
ヴァイナモイネン級
1929年起工 就役1932~47(66?)年
93m 3900t(常備) 45口径10インチ砲 連装2基 14.5ノット
装甲厚
垂直装甲 55mmNS
砲塔前盾 100mmKC 約22度内傾
バーベット 100mmKC
水平装甲 30mmNS
砲塔天蓋 75mm
舷側装甲と重要区画を直接覆うボックス装甲の組み合せという解釈も可能。
この場合、有効な遅動信管を持たない砲弾に対しては、舷側で炸裂させボックス装甲で受け止める多重防御的に作用する。もっとも水平装甲は配置的に直接命中してしまい、その中でも弱体である。
なおジョンエリクソンは改装時に主砲塔の天蓋を撤去、固定式のバーベット風装甲として、新たにボフォース15cm連装砲を置いている。
この砲は当然元の主砲よりも高い位置にある事、全体的に上構が大型化している点から、ブレストワークモニターに似た艦影に。